岡村 毅

岡村 毅

ラオスのワットプー祭り。フルムーンの夜に行われる。

(写真:佐藤秀明

認知症をめぐる概念の闘いを理解する――クロノスとカイロス

ホームレスや認知症を患う人々のケアを担う精神科医によるエッセイ。統計上にはなかなか浮かび上がってこない人々の実態と、それを見守るなかで得た気づきを綴る。

Updated by Tsuyoshi Okamura on February, 6, 2023, 5:00 am JST

すでになっている人を苦しめる「予防しましょう」

認知症の領域ではだいぶ前から2つの概念が闘いを繰り広げている。それぞれの陣営は、何も自分の利益のために闘っているわけではなく、それが人々の幸福につながると信じて主張しているのである。

例えば「予防」対「共生」である。2019年に示された政府の大方針(認知症施策推進大綱)では認知症の人を10年で1割減らすことを当初謳っていた。しかしこれが「認知症になったら残念ということか」「認知症になったら敗北ということか」と猛反発にあい、政府は慌てて、「共生と予防は車の両輪です」「『予防』とは、『認知症にならない』という意味ではなく、『認知症になるのを遅らせる』『認知症になっても進行を緩やかにする』という意味である」とエクスキューズを入れざるを得なくなった。良いことをしようとした行政の方にとっては苦い思い出であろう。

認知症を予防しましょうという圧が大きすぎれば、認知症にすでになっている人は立つ瀬がないであろう(これが分からない人は、障がいを持つ家族と幸せに生きている人に、障がいを撲滅しましょうと言えるか、と問うてほしい)。

山形県飯豊町の豪雪
山形県飯豊町の豪雪。

では予防というと人でなしかというとそんなことはあるまい。認知症になると失うものも確かにある。例えば旅行や仕事は制限されるだろう(もちろん出来なくなるわけではないがいろいろと苦労が増える)。いつかはだれもがなるにせよ、人生は限りあるのでできる限り長く認知症にならずに旅行や仕事を楽しみたいと考えることは自然だ。日本の製薬会社のエーザイがとうとう疾患修飾薬(予防の薬)を世界に先駆けて作ったニュースが話題になったが、諦めずに信念に従って自らの道を突き進んだことは称賛に値する。

認知症は「病気である」と啓蒙された

また「そもそも認知症は病気なのか」という闘いもある。神経病理学的に見れば、明らかに「病理」はあるのだから、病気ではないというのは真実を見ない愚者であろう。一方で、ひとの人生という視座からを眺めてみると、幸いにも長生きができればいつかは認知症になるわけで、それを病気と言ってしまうと「人は病気になるために長生きをしている」と言えなくもない。要するにかみ合っていないのである。

「認知症は病気です」という人は、何も「認知症の人を病気に仕立てて迫害してやろう」と思っているわけではない。かつては認知症(痴呆と呼ばれていた)の人は病院にも連れて行ってもらえず、「頭がおかしくなってしまった老人」と蔑まれ、もの盗られ妄想(もの忘れに基づいてあれがない、盗ったでしょうと周りを責める現象)も「何を馬鹿なことを言っているんだ」などと感情的に反応されて、結果的に妄想は悪化するという悪循環であった。そこで「認知症は病気です」「本人に落ち度はないのです」という啓蒙が行われたのだ。これによって救われた本人や家族は多いであろう。

病気かどうかを決めることで、その後の対応が大きく変わる

筆者は認知症の研究と臨床に関わって15年ほどが経った。この辺りで上記の闘いを自分なりにまとめてみた。

立場Kは、認知症は病気だととらえ、予防に重心を置き、まずは診断をしっかりしようと考える。全国どこでもそれなりに診断ができるようになってきたのは立場Kのお陰だろう。一方で病気であれば「病人」であるから、患者さんは医師をはじめ専門職に従うように圧力がかかるリスクはあろう。また病気であれば対応の「正解」もあるのだと考えられ、そうなると最も疾病知識が多い、つまり正解を知っている医師を頂点としたケアのピラミッド構造が出来上がりがちだ。地域の支援者と話していると、「認知症らしき人がいて、何とか力になりたいが、診断を受けてくれないと僕らは何もできない」という声も聞く。現行のシステムは診断からスタートしているのは事実だ。

一方で立場Xは、認知症は病気ではないという立場で、共生に重心を置き、診断も重要だが診断後に支援もできずに診断だけするのは無責任だと考える。近年は海外では「認知症患者」とかなどということは許されずPeople with dementia「認知症とともに生きる人(あるいは認知症がある人)」と呼ばなければならないが、我が国でも徐々にそうなりつつある。そして、あくまで本人の意思が重要である。それはそれで素晴らしいが、臨床家としては、診断が遅れたり、あるいはかたくなに薬を飲まないので結果的にみんなが苦労したりするケースもあると述べておく。

実は施設入所や入院に対する考え方については、それほど単純ではない。学識者が、海外では入院などありえないとか、施設が多い日本は異常だと言っておられるものを読んだり聞いたりすることも多い。まあポジショントークなのだといってしまえばそれまでだが、臨床現場のことも多少は知ってほしいものだ。いまや一人暮らしの認知症の人がたくさんいる。また離れて暮らす結構縁の遠い親族(例えば姪の娘とか、亡き夫の親友の息子とか)が通いでいろいろとケアしてくれていたりするケースもある。とうとう身体的にも弱っていき、最後には「もう無理だ、施設にお願いしよう」となるケースはだれにも責められまい。あくまで常識的に、情熱と冷静をもって決めていかねばならないのだ。

また、これは声を大にして言いたいが、認知症の研究やケアに携わる人は一般的にこころ優しい善い方が多い。上記の闘いで一方が責められたりしているのをみると実に心が痛い。私はどちらもよくわかるし、また白黒はっきりつけられないと考える。

早期に認知症になったとしても、カイロス的であれば受け入れられる

では上記の違いの根本原因はどこだろうか?あくまで私の私見であるが、それは「時間観」ではないか。

時間こそは人間に与えられた究極の資産であり、生から死までの時間だけが人生である。その外には何もないか、あるいはあったとしても分かりえない。ハイデガーは存在の意味は時間であるといったが、時間は人間のもっとも基盤にあるものだ。時間について考えるときにしばしば引用されるのがギリシャの時の神クロノス(Χρόνος)とカイロス(Καιρός)である。客観的時間と主観的時間、時計で測れる時間と意味や契機としての時間と対比される。

人生の客観的時間が平等に与えられていると考えるならば、認知症になることは時間の流れが速まってしまっていることを意味し、違和感を禁じ得ないであろう。常ではないという意味で「異常」であり、予防したいし、またそのためにはそういうケースを集めて分析(研究)したい。それが人々の「平等」につながるのだから。これをクロノスの立場と呼ぼう。

一方で人生は主観的意味時間であり、早期に認知症になったとしても、それはその人の人生であり、例えば「認知症の先輩」として病院などでボランティアをするなど意味のある活動をすることは可能である(実際に数はまだ少ないがそういう人はいる)。嘆くのではなく、受け入れる強さである。これをカイロスの立場と呼ぼう。

こう考えると、なぜこの2つの立場の闘いがこうも炎上するのか、人々をもやもやさせるのか、少しわかるのではないか。人間のもっとも本質的な資産である「時間」に関する2柱の神の相克であり、あなたの中にも二つの立場が同居している。人はいつか弱って死んでしまうのは仕方がないが、時に抵抗し、時に受け入れて、私たちは生きていく。人は強くもあり弱くもあるが、どちらをみるかという違いかもしれない。

最後に、臨床医として一言。認知症の終末期になると、時間の概念は弱っていき、これまで生きてきた時間が融解していく。時間は一方向に流れず、一塊になる。息子がベッドわきに来ると、「お父さん」と声をかける。当たり前だ、似ているのだから。その人にとって息子はいつまでたっても赤ちゃん、そして父は壮年なのかもしれない。クロノスの時は退き、カイロスの時が訪れる。それは平安であり、恩寵ともいえよう。