鈴木貞美

鈴木貞美

四万十川の夏の風景。泳ぐ人々の姿も見える。

(写真:佐藤秀明

自然をとらえる概念がないために、科学的思考が発達しなかったと論じられた日本人

明治以降、欧米の社会の発展を目の当たりにした日本は、自分たちの力が劣っていると思い込んだ。技術面のみならず自然や科学に対する見識も遅れていると考え、ときに誤った自己評価を下し、それまで続いてきた見識を断ち切った。時代が大きく動いたとき、私たちが何を見失ったのかをみてみよう。

Updated by Sadami Suzuki on February, 17, 2023, 5:00 am JST

欧米に先駆けて工学部を設立していた日本

帝国憲法を整える以前、伊藤博文がやはりドイツに学んで1886年に帝国大学令によって発足させた帝国大学は、文部省により一元的に統括された総合大学(university)だが欧米にほぼ一世紀先がけて工科大学(のち、工学部)を抱えていた。当時、工学(technology,engineering)は、イギリスでは理学部(faculty of natural science)の一学科、ドイツでは専門大学が展開していただけで(のち、アメリカでも展開)、欧米の総合大学が工学部を抱えるのは、1970年代にコンピュータ・サイエンスが台頭してからである。
それは、いわば工業立国方針を進めた伊藤博文の膝下でこそ実現したものといえよう。日本の工学は、軍と密接に展開し、日露戦争における火薬の開発や砲台の設置などにフルに活用された。また帝国大学設立の3年後に農科大学を抱えたことも、その実学的な様相を強くした。西欧の科学(sciences)の展開に比べてみるなら、原理論にあたる基礎科学より応用科学に極端に比重が偏っていた。それは今日、定説である。

明治には「天然物を愛する心を養う」教育が掲げられたが、戦後に一方的な科学主義が横行した

自然科学の偏りはもう一つあった。欧米では18世紀から博物学(natural history)が鉱物など天然資源の探索と自然愛好の両面を拡げ、チャールズ・ダーウィンの生物進化論も生態観察を積み重ねて唱えられたものだった。

一方、日本では1891年に文部省が「小学校教則大綱」を制定した際、小学校の理科の教科目標に「天然物を愛する心を養う」を掲げた。19世紀後期からイギリスでは普通教育が拡がり、児童には学年相当の教育をという考えが浸透し、子どもたちを自然界に親しませる工夫が進んでいた。それを参照したことが一番大きいと思うが、まず小学校や中学校の教師のあいだに植物採集や昆虫採集への関心が拡がった。牧野富太郎が国際的に活躍したことも影響が大きく、牧野のところに、種の同定を依頼して全国から植物標本が寄せられていた。東京帝大と京都帝大(1897年設立)に生物学の講座が開かれたのと前後する時期のことである。つまり、自然科学への関心がそれまでの物理一辺倒から生物にも重点が置かれたのである。

新潟県松之山、美人林の早春
新潟県松之山、美人林の早春。

その動きは、日露戦争後、日本人の国民性として、和歌に花鳥風月が盛んにうたわれてきたことなどをあげて、「自然を愛し、自然に親しむ」が徳目として論じられたことにも響いていよう。東京帝国大学国文学科教授、芳賀矢一の著した『国民性十論』(冨山房、1907)のなかでのことである。
ところが、先の文部省の理科の教科目標の設定「天然物を愛する心を養う」に対して、第二次世界大戦後の教育界には、科学教育に道徳を持ち込んだという非難があった。いわば自然に親しむことを退け、客観的な観察や実験に徹するような一方的な科学主義が横行したのである。

再び自然を愛することが是とされたのは、1970年代の公害問題の浮上から

もっと驚くべきは、戦後の国語学および翻訳論で、“nature”の訳語を名詞「自然」と決めつけ、古代からの「自然」の語は、自ずから然りを意味していたので、ヤマトコトバには、自然を総体として対象としてとらえる概念(コンセプト)がなかったと論じられてきたことではないだろうか。また第一級の科学史家たちが中国の天人合一論の影響により、ないしは日本人が伝統的に自然に情緒的に親しんできたために、科学的思考が発達しなかったと論じてもきた。これらは敗戦後、西洋の科学=技術へのキャッチ・アップが課題とされたため、戦前期の動向を押しなべて前近代的と見なす傾きによるものといってよい。だが、1970年代に公害問題が浮上すると、その克服のため、いわば逆転して、自然を愛する日本文化論が盛んになった。
“nature”の訳語は、幕末の『英和対訳袖珍辞書』(1862)に〈天地自然〉(天地のあるがまま)、維新直後の柴田昌吉・子安峻編『英和字彙』(1873)には〈天地、万物、宇宙、品種、本体、自然、天理、性質、造物者〉と多義的に登場する。そして『言海』(1889)には〈しぜん:オノズカラ然ルコト。天然(名詞)〉とある。「天然」は、平安時代初期、最初の勅撰漢詩集『凌雲集』(814[弘仁五])中、大伴親王(のち淳和天皇)の詩に〈水流長製天然帯>と出てくる。水の流れは天然の帯を長くつくるという意味である。
もっと確実にしたければ、イギリス人宣教師と若き中国人たちが協力して編んだロブシャイド編『英華字典』(香港、1868)、もしくは、その井上哲次郎による翻訳訂増版(藤本氏蔵版、1883、ピンインを除き、ほぼ踏襲)を覗いてみればよい。いま、用例の紹介も、それについての議論も飛ばして名詞形の訳語のみ示しておく。

“Nature”(名詞)・「性」・「the universe、天地」

「性」は本性の「性」、ヤマトコトバでは「タチ」や「ウマレツキ」、宇宙ないし人間の活動の場を指す世界全体をいう「天地」は「アメツチ」が該当する。『万葉集』には4516首中に「天地」の表記で53首、万葉仮名表記で10首、合計63首ほどある。

つまり前近代の日本人に、自然を総体として対象としてとらえる概念がなかったわけではない。それが見失われたのは、漢語とヤマトコトバとの対応関係がよく把握しえていなかったからである。そして日本人は自然に情緒的に親しむばかりではなく、古代から各種の土木工事を繰り返し、江戸中後期に各地に公害を頻発させるまでになっていた。それが明治期に見落とされてきたのは、「自然を愛し、自然に親しむ」日本人の国民性論が唱えられたことが障害になったからかもしれない。

 *この本文は2023年1月15日発売『日露戦争の時代ーー日本文化の転換点』(平凡社)の一部を抜粋し、ModernTimesにて若干の編集を加えたものです。