岡村 毅

岡村 毅

North French|Death of the Virgin|ca. 1450–1500

(写真:メトロポリタン美術館 / The Metropolitan Museum

「医療では死は敗北なのです」。まだデータ化されていない看取りの現場で起きていること

医療はデータサイエンスがその力を大きく発揮できる分野ではあるが、同時に人間と人間の営みであるがゆえにデータ化されにくい事象が多い領域でもある。老年精神医学会専門医が終末ケアを担う人々の声を拾い、その実情を探った。

Updated by Tsuyoshi Okamura on May, 16, 2023, 5:00 am JST

死のそばで起きていることをデータで理解することはできるのか

終末期ケアの優れた調査や論文は多い。それらの多くはご遺族やスタッフへのアンケート調査として行われる。亡くなった本人には聞けないのだから実際のところは分からないのだが、私たちは死のそばで何が起きているか、データを持っていると信じている。それなら生成AIを使えば現代日本の死について正しく語ることができそうである。

だがそれは本当だろうか。データになっていないものがあるのではないか?

本稿では臨床家の視点から死の禁忌について語る。

病院も施設も、死を不浄で異常なこととして取り扱っている

有名な古典的論文がある(引用1)。日本では医師が「あなたはがんです」といった場合は、治るから言っている。しかし「あなたは胃潰瘍です」という場合は、実際は治らないがんなのだ。患者に本当の病名が告知されるのは、ほぼ絶対に治る場合に限り、死の可能性がある場合は、伝えられないということである。とはいえ「がんなら治る、胃潰瘍なら致死的」というのは奇妙な事態だ。

もちろん今では、がんの告知は一般的である。しかし問題にしたいのは、この基盤にある精神的土壌である。昔話で片付けていいのだろうか。

もう一つ例を示そう。少し前までは、高齢者施設で心肺停止になると、大急ぎで119番をして提携の病院に運び、心臓マッサージなどを形ばかりしてから医師が「やるべきことはやったが、残念ながら亡くなった」と死亡確認をすることが一般的だった。施設で死が起きては困るからである。

もちろん心臓マッサージをしたら肋骨は折れるし、昇圧剤を使ったら一過性に心拍が再開し、そして数日間生きて(苦しんでいるかどうかは分からない)いずれにせよ亡くなる。死は不浄、死は異常、だから最大限抵抗した証拠を残す、というのが家族や医療者にとって必要だったのかもしれない。近年は「平穏死」という言葉が一般的になり、急激にこのような現象がなくなりつつある。

なぜ我が国では死が特に忌避されるのだろうか?神話に起源があるという説もあれば、律令制に起源があるという説もあるが、歴史学者や宗教社会学者ではないのでここは深入りしない。

Various artists/makers|The Doctor Dismissing Death|1785|Image via Metropolitan Museum of Art
Various artists/makers|The Doctor Dismissing Death|1785(Metropolitan Museum

個人的な経験や見かたで恐縮だが、白衣を着て死の近い高齢者の多い病棟や施設を訪問すると、スタッフに対して何とも言えない違和感を覚えることがしばしばあった。

まずは病院の病棟である。徐々に血圧が低下して、弱っていく人がいるのは自然である。しかし、夜の回診に行くと「申し訳ありません、血圧が低下しています、呼吸も弱くなっています!」などとスタッフがオロオロして興奮している。もちろん、大切な患者さんに亡くなってほしくないという気持ちで言っているのかもしれない。人間だから、死の予測を前に慄くことも自然かもしれない。しかし、どうやらそうではなく、死を異常として、あってはならないこととして焦っているようなのだ。

しかし、個人的には、医療スタッフであれば、死を自然なこととして、患者さんに対して静かな気持ちで、安らかで痛みがない死となるように冷静に対応してほしいと思う。「申し訳ない」などと言う必要はない。それは患者を冒涜するものではないだろうか。

次に施設である。とにかく「もう無理です」「病院に送ってくれないか」というプレッシャーを感じることが多い。もちろん施設でお看取りをすることもできるはずだし、そもそもどうするかは家族との話し合いで決まっている。しかし、まずはうちでは無理だという弱音から始まる。結果的にその施設で亡くなることが多いのだが、個人的には「うちでは無理だ、と思っているスタッフに看取られるのは、どうなんだろう」と思う。

また、病院でも施設でもあるのが、「呼吸が弱ってきたから、一回見に来てほしい」というものだ。もちろん見に行き「徐々に死が近づいています、静かな気持ちでお見送りしましょう」と伝えるだけなのだが……。そして「私もあなたもいつかは旅立ちますから、この人と同じなんですよ」というと、多くの場合、ポカンとした顔をされる。なぜこのようなことが繰り返されるのかと考えると、ボールを医療者に投げたいのではないかと思う。自分のところで死を受け止めるのが怖い、プロフェッショナルとしては未成熟な意識である。

以上は数年前の話であるし、私のものの見方がねじ曲がっているのかもしれないので、いち医師が考えたことに過ぎないと思って頂きたい。

死が近い現場で、死はどのように語られるのか

しかし私は、死が近い現場で死がどのように語られ、あるいは語られないか、知りたくて仕方がなかった。幸い素晴らしい仲間との知遇をえて、少しだけ迫ることができたので最後に紹介したい。

私たちは、僧侶かつ研究者という人々と、医学や心理学の研究者で研究チームを組み、死が近い高齢者をケアする病院や施設のスタッフにインタビューをするという研究をした(引用2,3)。

私たちはいくつか仕掛けをした。

1. 死を扱うことに慣れており、また人に安心感を与える僧侶がメインインタビュワーになることで、死について本音で話せるのではないかと考えた
2. 医師はサブインタビュワーになることで、現場の実情をそこまで知らないメインインタビュワーを補佐した
3. 医師が後景にいることで、こんなことを言ったら「正しくない」などと言われるのではないかという、ケアスタッフが持つかもしれない医療スタッフへの遠慮が生じないようにした
4. 僧侶も医師もいるし、僧侶も医師も「研究者」でもあることを示した。これによりインタビューが行われている空間が多声的な場であり、自分の意見を遠慮なく言ってよいのだと感じてもらうようにした
5. インタビューの場所は、仏教系大学の美しい土壁の会議室とした。座り方の配置なども精神科医がセンチ単位で準備し、リラックスできるようにした。

さて、何が語られたのであろうか。

医療において、死は敗北。けれど「あなたもいつかは行く場所」

まず、高齢者が亡くなった際に、周囲の高齢者にどのように伝えるかという点で病院と施設は大きく異なった。

 病院スタッフ「亡くなった人がいた場合、説明はしません。聞かれても『退院された』とだけ答えます。個人情報なので伝えられないという面もあります」

 施設スタッフ「同じユニットの人に、あの人最近みないけど、どうなったのかと聞かれたら、亡くなったことははっきり伝えます。自分もあなたもいつかは行く場所だと伝えます」

また、医療が死を敗北とみなすことに対する葛藤がともに語られた。

 病院スタッフ「病院では……亡くなることはよいことではありませんから……」

 施設スタッフ「医療では死は敗北なのです」

死にゆく人のケアが尊い営みと認識されていることも語られた。

 施設スタッフ「人は愛されて生まれてくる。そして人々に愛を返し、この人生を卒業していく。ここに立ち会えることに神聖さを感じる。」

 施設スタッフ「高齢の方は赤の他人で、亡くなるまで2~3週間しかお会いしていない方とかもいるんですけれども、全然そんな気はしないのです。ずっと一緒に過ごしてきたような。2~3週間が2~3年に感じられてしまうぐらい(中略)その終末期の数時間、数日間ケアすることでその人のことを最も深く知るのです」

 施設スタッフ「高齢者は、最後まで生き抜いた方が多い気がします。頑張って生きた結果が死なんです。怖いという気持ちはありません」

 施設スタッフ「最後は、ありがとうと言ってくれる人が多いですね。自分の時間がもうこれ以上ないとき、振り返ったとき、感謝なのです。そういう姿を見せていただき学ばせていただくことがやりがいです」

社会に通底している死の禁忌。しかし生活の場である施設では、尊いものとして寄り添う人が徐々に現れている

私は、現在は以下のように整理している。

すべての文化に死の禁忌はあるが、日本は特に強いようだ。そのため、病名を隠す、わざわざ病院まで運んでから死なせるといったことも行われていた。医師としての個人的経験からも、病院や施設で、死を極度に異常とするスタッフとしばしば巡り合ってきた。いまでも死の禁忌は私たちの社会に通底しているように感じる。しかし、医療の場である病院ではともかく、生活の場である施設では、死にゆく間際を尊い時間として寄り添う人が徐々に現れている。それは、医師としては見えなかったのかもしれないが、僧侶と深くインタビューすることで分かってきた。医療者と、そしておそらく宗教者が、死を尊いものとして死にゆく人を支えるスタッフたちを、支えなければならない。

参考文献
1. Long SO, Long BD. Curable cancers and fatal ulcers. Attitudes toward cancer in Japan. Soc Sci Med. 1982;16(24):2101-8. doi: 10.1016/0277-9536(82)90259-3. PMID: 7157041.
2. 岡村毅,小川有閑,髙瀨顕功,新名正弥,問芝志保,宇良千秋.死が近い高齢者をケアする際の葛藤:ケアスタッフが僧侶と研究者に語ったこと.日本老年医学雑誌 58 巻 1 号 p. 126-133 https://doi.org/10.3143/geriatrics.58.126
3. Ogawa Y, Takase A, Shimmei M, Toishiba S, Ura C, Yamashita M, Okamura T. Meaning of death among care workers of geriatric institutions in a death-avoidant culture: Qualitative descriptive analyses of in-depth interviews by Buddhist priests. PLoS One. 2022 Oct 18;17(10):e0276275. doi: 10.1371/journal.pone.0276275. PMID: 36256668; PMCID: PMC9578581.