岡村 毅

岡村 毅

Petrus Marius Molijn|Zieke man krijgt te drinken|1829-1849

(写真:アムステルダム国立美術館 / Rijksmuseum Amsterdam

大変なのは入浴の介助ではない。介護者を苦しめる「名もなき介護」

データ駆動型社会は「家族」の問題も解決できるだろうか。超高齢化社会において、高齢者を抱える家族の問題は見過ごせない。精神科医が高齢者の家族の問題を調査してみると、そこにはまだ表面化していない課題が山積していた。

Updated by Tsuyoshi Okamura on June, 5, 2023, 5:00 am JST

未熟さが家族システムを生みだし、繁栄に成功した人類。高齢者が増えたことはどう作用するのか

知能と身体は切っても切り離せない関係だという。このことは、知能が単なる情報処理・演算装置ではないことを意味している。例えば、ヒトはヒトから生まれるので親がいる。「親機」「母なる大地」「父なる神」なんて言葉もある。ここにはより包括的な意味がこめられている。AIにはそのような意味での親はいない。AIは「親」の概念を私たちのように理解することができるだろうか。さらには、AIは私たちと同じような感覚で「家族」という概念を捉えることができるのか。ヒトは子供が非常に未熟な状態で生まれてくるからこそ家族を作り、無力な子供をかわいがる。それが共感を生む。これこそが地球を支配するようになったヒトの強みだという説もある。家族システムは幼少期をもつヒトのもつ力の根源ともいえるだろう。高齢者が増えた現代社会にあっては、高齢者と家族システムをどのように理解すればよいのだろうか。

東京都健康長寿医療センター研究所には、高齢者の家族問題に公衆衛生の視点からアプローチしている涌井智子先生がいるので、日ごろの疑問などを聞いてみた。

個人主義者が多い精神科医。家族のことはあまり考えない?

岡村:精神科は診察室で個人の究極的な実存と対峙することになります。そして個人の悩みの非常に多くが家族関係の悩みです。しかし精神科医的な思考は、人間は家族や国家といった所与のものから自由であるというもの。大事ではあると思いつつも、家族そのものについてあまり考えたことがありませんでした。

涌井:そうなんですね。ドクターは科によってずいぶん違うんですね。

岡村:はい、全然違います。例えば精神科医は大学でもチームでランチなんて行きません。食事くらいは好きにさせてよと思うわけです。一方で外科はいつもみんなでランチです。私に言わせれば、食事時まで一緒にいるなんて耐えられない。まあ仕事内容が違うので、いろいろ事情があることはわかっています。批判するつもりはないです。とはいえ精神科医がもっとも個人主義であることは確かだと思います。

認知症界隈で言いますと、精神科医は社会のあらゆることに興味があり、学生時代も大学に寄り付かない人が多いですね。体制、権力、国家が大嫌いって人が多いかな。一方で脳神経内科は、神経系という複雑怪奇なシステムの探究者ですから、学生時代は成績上位者ばかりです。とにかく頭がいい。老年内科医は、バランスがいい穏やかな人が多いです。これも当たりまえで、老年内科は循環器、消化器、呼吸器、泌尿器、神経系、さらに精神的なことなどあらゆることに対応しますからバランスがよくなるわけです。脳外科は、マイクロサージャリー(顕微鏡下の手術)から頭蓋底のダイナミックな再建術までありますから、体力的にも実は大変な科です。マインドは外科ですよね。とはいえ消化器などに比べると、「ランチは別」という人が多い気がする。やはり脳に興味があるわけで、個人主義の色があるんでしょうね。以上は個人的な意見ですよ。

涌井:なるほど。ところで、今日はこんな話でいいんでしたっけ。

岡村:真面目な話に戻りましょうか。昨年度、涌井先生と私は厚労省に採択されて協働の調査プロジェクトを行いました。高齢者の家族の介護者の研究をしたわけですが、出てきた調査結果に私は衝撃を受けました。

涌井:どのあたりにですか?

岡村:家族会に行っている人がほとんどいなかったところです。家族介護者は離職などで社会から徐々に離れてしまい孤立していくリスクがあるのですが、私は家族会という互助がそれを解消できると思い込んでいました。医者や専門職といったひとが外から(あるいは口の悪い人は「上から」というでしょうが)働きかけてもなんともしがたいが、ピアサポートが解決につながるんだと素直に信じていたわけです。でも家族会に行っていた人が3%というのはどういうことなんでしょうか?

涌井:それは専門家から見たらそれほど意外でもないですよ。まず介護者と言っても、働いている人が多いですし、男性も少なくありません。決まった時間に集まるというのは物理的に難しくなりつつあるのです。また知識についてはインターネットで得ることができます。家族会はとても大切な社会の機能ですが、時代の変化によって利用者が少なくなっていったようです。

岡村:なるほど。私は古い考えのなかに取り残されていたようです。

介護の大変さは、入浴や排泄の介助ではない

岡村:今回の調査から、高齢者の家族介護者の方のリアルな様子が浮かび上がりました。介護の大変さは、入浴や排泄の介助ばかりではないということです。

涌井:そうなんです。入浴や排泄の介助は大変ですが、ここは介護保険制度に頼れる領域ですから、専門職の助けを借りることができます。問題はアウトソースできないところにあります。

岡村:具体的にはどのあたりが問題となっているのでしょう。

涌井:例えば、高齢者がどこまで自分でできるのか、どこから先ができないのかを観察しながら見守ることです。常にアセスメントして、やり過ぎないように、やらなさすぎないようにします。
迷子になってしまったら警察が助けてくれますが、迷子にならないようにいつも気を付けるのは介護者です。こういった「見守り」はずっとし続けなければなりませんし、失敗しないことが当たり前で、成果が分かりにくく、とにかくとても疲れます。

岡村:なるほど、見守りですか。それは肉体的にというより、精神的な負担が大きそうです。

涌井:また、療養の方針を介護者が医師やケアマネと話して決めてしまえば話は早いのですが、介護者はあくまで本人が話すのを手伝うという優しいスタンスでいることが少なくありません。「通訳」と表現された方もいます。

岡村:確かに医療や介護の制度は分かりにくく、本人が納得するまでに時間がかかることがあります。制度が理解できず、要介護者が医師やケアマネではなくて家族に怒る場面もありますね。でも介護者は「うん、うん、自分が聞いておくよ、ごめんね」と受け止めていらっしゃる。疲れますよね。

ちょっとした調整や環境整備。「名もなき介護」が介護者を苦しめる

涌井:あとは、家の中のものをいろいろな場所に移動してしまうので、元に戻すのが大変だという話もありました。エアコンを切ってしまうとか。いわゆる行動心理症状(BPSD)の範疇なのですが、不眠とか多動といったものと違い、もっと生活に密着しており、同居者が地味に困ることですよね。

岡村:確かに、病院の診察室で出てくる話題とだいぶ違いますね。

涌井:環境を整えることも負担になります。移動ができなくなってきたから椅子をキャスター付きのものに買い替えるなど、本当にそういった細かなことです。あるいは介護者が仕事をしている場合、日中一人で自宅にいる高齢者の体調が急に悪くなったときに誰に頼めばいいのかを考え、近所の人にひとこと言っておくとかいった調整ごとも含まれます。

岡村:なるほど、それは考えたことがなかった。

涌井:認知症の人のケアと言っても、症状があり、それが大変な場合は「医療」にかかることができます。しかしこれは氷山のてっぺんです。その下には、様々な介護があります。入浴や排泄の介助は大変ですが、介護保険がカバーしてくれます。ここは氷山の本体でしょう。ここまでがこれまで世間に認知されている領域です。しかし氷山には見えないところがありますよね。それが今回の調査で見えてきた「見守り」、「コミュニケーション支援」、「日常生活の中のBPSD」、「環境整備」といった、毎日の生活として途切れることなく続き、家族介護者でなければできないことで、しかも周りからは見えにくいものです。「よくやっているね」とか「大変だね」と言われることもないのです。私たちはこれを『名もなき介護』と名付けました。

岡村:ああ、名もなき家事に対応しているのですね。ちょっとした、名前もない家事だけど、なぜか女性がやらされているというあれですね。

徐々に弱っていった場合、介護者はそれが介護だと気づかない

涌井:また実際には介護をしていても、本人がそれを介護だと思っていないという問題もあります。

岡村:どういうことですか。

涌井:例えば、奥さんが徐々に弱ってきて、夫が徐々に身の回りの世話をしています。「これまで世話になったしな、これくらいはしないと」というわけです。「人が家に入ってくるのも気を使うし」ということで介護保険の申請などもしていません。ところが、奥さんの衰弱は進み、世話も徐々に大変になってきます。ある日突然始まる介護もありますが、特に高齢夫婦の場合など、徐々に支援が増えていって、さらにはそれが過去のお二人の生活の延長上にある場合、それが介護だとは思っていないケースがあるのです。調査中に出会ったあるご夫婦は外に助けを求める機会を逸してしまい、かなり大変な状況になっていました。我々が『これは大変な介護ですよ』と伝えたことで、地域包括支援センターと一緒に翌日行って介護保険が始まりました。

人類は家族から自由になれるか

岡村:家族の介護というのは大変ですね。私は常々人類は家族とか、宗教とか、そういった所与のものから自由になるという大きな物語をもっているのではと思っていました。西洋社会では家族はかなり解体され、性別までもが自由になりつつあるように思います。自由を愛する精神科医としてはそれは人類の進化なのだと思うのです。家族はいずれなくなってしまうのでしょうか?

涌井:それは違いますね。家族は絶対なくならないと思います。家族が弱くなれば、コミュニティ、ひいては国も弱体化します。

岡村:先生は米国で学ばれて、リベラルな研究者と思っていたのですが、意外ですね。

涌井:まず米国では家族の価値は絶大です。社会保障が弱いということもありますが。また移民の方や、在米の外国にルーツを持つ人々も、家族どころか同じ出身地だということで、助け合っています。中国系の人の家族意識もとても強いですね。家族どころか血縁者はどこまでも助け合います。
日本は家族の結びつきが強いというイメージはありますが、実際にはそれほどでもない。これは、いいとか悪いとかいう話ではなく事実としてそうなっているということです。

岡村:精神科医としては、問題行動の多い親の元に生まれたことが原因となって苦労をし続ける患者さんをたくさん診てきました。そうなると家族は「縛り」のようにも感じます。

涌井:家族やファミリーと言っても、もう少し掘り下げてもいいかもしれません。現代日本では、比較的血のつながりが重視されます。一方で米国の「ファミリー」はもっと風通しが良い。いやならやめればいい、一緒に過ごしたから仲間だ、みたいな。

岡村:確かに。それは文芸やエンタメにも現れている気がします。『鬼滅の刃』は家族の価値が反復して語られる物語です。その中に、敵の鬼が「鬼同士のニセ家族」を形成しており、主人公が「ヒトと鬼だが本物の兄妹」で、もちろん主人公が勝つというエピソードがありました。血の濃さが強調されているように感じます。鬼の側も、実はラスボスの悪の血でつながっているという倒錯があります。太古の昔から繋がっている本物の血の継承である聖家族対、欲でつながった悪の血の繋がりであるニセ家族という対比ですね。一方でアメコミのバットマンとロビンは血縁がない。ここだけ取り上げるのも公平ではないかもしれませんが。

あと是枝監督の「万引き家族」や「ベイビーブローカー」は、日本や韓国が舞台ですが、血縁関係がないが繋がっている「ファミリー」の話です。日本は、血縁家族からファミリーへと価値観が揺れているのかもしれない、などと考えてしまいます。

涌井:そういえば今回の調査でも、家族ではない人が、高齢者のケアをしていた事例がありましたよね。昔かわいがってもらったとか、大変世話になった人の配偶者だ、とかそういう「信頼」の物語が語られました。

岡村:カラマーゾフの兄弟も、ゴッドファーザーも、エヴァンゲリオンも、すべて家族の物語ですから、家族に関することは人類の最大の課題なのかもしれませんね。

うかがった話はここまでである。
まず高齢家族への介護に関する問題は、問題が問題として認識されていないことにある。これはどうにかして表面化させなければならない。課題であることが多くの人に伝われば、解決策が見えてくる。例えば、勝手にエアコンを切ってしまう問題などはすでにあるテクノロジーを組み合わせれば解決するだろう。迷子にならないようにする施策もすぐに出てくるはずだ。こうして「名もなき介護」を一つずつ減らしていけばいい。

一方で、家族に関する問題は「解決」が難しい。現代のように様々な側面で「個」が重視される社会においては、「家族とはよいもの。助け合うのが当たり前」という前提(=縛り)を捨てて、家族の在り方をもっとオープンに議論し考えていくことが重要だ。家族とは「形成されるもの」という前提に立つことができれば、家族間の課題が明確になるため、解決策を見出すことができるかもしれない。人としての根本を問う問題への解決策は簡単には出せないが、負担となる事象が明らかになっていけば、それに対するアプローチは可能になっていくだろう。

取材協力:涌井智子

地方独立行政法人東京都健康長寿医療センター(東京都健康長寿医療センター研究所)研究員。
公衆衛生学・老年社会科学を専門とし、要介護高齢者とその家族が、介護を担う生活の中で抱える様々な課題を研究テーマにしている。特に、介護を担う家族の負担感やソーシャルサポートといった研究をベースに、近年は介護者支援を目的とした介護生活マネジメントプログラムを開発中。