広告ビジネスを縛り付ける成功体験
消費社会は、ヒト、モノ、コトすべてを情報商品に変えていく。だから消費社会はメディア社会だと言える。情報という商品は無限に生産することができる。だからそれを財とする情報資本主義は基本的には潰れようがない。
昨今、広告媒体、つまりメディアが窮状を訴えているのはビジネスモデルが転換期に来ていることに気づいていない、あるいは気づかないことにしているからなのだろう。人間はなかなか自らの成功体験の呪縛から逃げることができない。例えばテレビ業界がこれまでと同じようなビジネスモデルを続けていこうとすれば、それは視聴者の現状に合っていないわけだから当然無理が出る。だから一旦かつての成功体験を無視して「今後、どういう形だったら収益が上がるのか」という将来的な議論を始めなければならない段階に来ていることは間違いない。大衆がなくなり「分衆」や「小衆」が生まれるという予言はあった。しかしそれに対するメディアビジネスの動きは特に見受けられないのだ。
またよく「テレビ離れ」が起きているというが、私にいわせればまだまだ多くの人が「テレビ」を見ている。というのもオーディエンスにとってみれば地上波のチャンネルでドラマを見るのと、ネットフリックスやアマゾンプライムでドラマを見るのは、チャンネルが変わるだけの話で「テレビを見る」というその行為そのものは変わらない。送り手が誰であれ、受け手側で起きていることは同じテレビ視聴の経験であり、行為自体は「テレビ→大衆」という基本モデルにおさまっている。
電波は国家に管理され保護されているので、現在はGAFAのようなネット専業媒体のほうがうまく資本主義的な、つまり広告的な価値をとらえているようだ。それを見ながらメディア業界は変化していかなくてはならないはずだが、現実問題として意識の世代交代はなかなかできない。しかしこれはメディア業界に限った話ではなく、古い意識の人が上にいる限り新しいことに取り組めないということは、大学を含めあらゆる組織に起きていることである。これはまったく他人事ではないわけであるが……。
広告で人の意識は変えられるのか
メディアから発せられる情報は、すでに醸成されている空気感に訴えかけることで大きな効果を発揮する。
だが、一般的にメディアには白を黒に変えるような神秘的な力はない。実際問題として、アメリカの大統領選挙で共和党員に民主党候補に投票させることは昔からほとんどできていない。それは新聞であれ、テレビであれ不可能なことで、せいぜいできることは「わざわざ投票に行くま でもないや」と棄権させること、あるいは「どちらにしようか」と迷っている人間に「こちらがましですよ」と導くぐらいのことだ。しかし選挙は浮動票の動きで勝敗が決することも多いから、メディアがまったく無力かというとそうともいえない。
広告の効果も同様で、大金をかけてCMを打ってもそれが本当にCMだけの効果なのかは実際にはなかなか検証できない。メディアに接して「意識が変わった」という人がいたとしても、潜在的に持っている欲望がそこで表面化させられただけかもしれない。そもそも「変わった」としても、どの程度変わったのかも曖昧なままである。本当に何もない状況から強い欲望を生み出すことができたのか、それを測ることは難しい。
本来、人間の思想や行動様式を一変させるほどの力はどのメディアにもないのだが、その影響力を前提に議論を重ねなくてはならないのがメディア研究のアポリア(解決のつかない難問)だ。
しかし広告をあきなう業界の人々は「メディアで変えられる」と言い続けてきたし、我々メディア研究者自身も基本的にはメディアの効果や影響力の存在を前提としている。だから、「メディアに効果がない」という研究はほとんどなされていない。誰もそうした結論をのぞまないからだろう。
そもそも大学におけるマスコミュニケーション研究は、第二次世界大戦期のアメリカでプロパガンダ研究あるいは戦時動員研究として始まった。人々をどう戦争に協力にさせるか、どうすれば敵国人に向けて引き金を引けるか、そうした情報心理操作、ふつうに言えば説得コミュニケーションの研究が起点となっている。つまり「効果 があるはずだ」という大前提の上にこの学問は成り立っている。その点では、「成長するはずだ」「賢くなるはずだ」という前提で行われている教育学なども似たようなものである。
メディアというのは人間が勝手に作り上げた幻想のもとに作動しているのであり、その意味ではとても脆い存在であるといえるかもしれない。しかし資本主義自体がそのような幻想、あるいは欲望を基に成り立っているシステムなのだから、これはなにもメディアの問題だけに限らない。