佐藤 卓己

佐藤 卓己

テレビ出演する当時のニューヨーク市長ジョン・リンゼイ氏。1967年から1969年の間に撮影。リンゼイ氏は市民のためにユニークな政策を打ち出したことで知られる。「歩行者天国」の実施もリンゼイ氏の実績の一つだ。

「有害である」とは効果を裏付ける評判である

DXの時代においては、メディアの形もさらに変化していくことが予測される。すでにあちこちに出てくる広告に対して辟易している人も少なくないだろう。しかしメディア研究をしている佐藤卓己氏によれば、メディアとはそもそも「広告媒体」であり、つまり広告と同体なものである。消費社会では「ヒト・モノ・コト」あらゆるものが情報商品になりうるのだという。メディアや広告の機能とはそもそも何なのか、それには明確な「効果」は期待できるのかを聞いた。

Updated by Takumi Sato on January, 17, 2022, 9:00 am JST

「有害である」というレッテルは効果の裏付けになる

歴史上、新しいメディアが登場すればそれに関連した有害メディア論もたいがい出てくる。明治期には女学生が小説を読むことが不良化につながると批判されたし、大正時代には怪盗小説を映画化した『ジゴマ』シリーズが青少年に悪影響を与えたるとして上映が禁じられたこともある。映画館は青少年を非行化させる「悪場所」だと言われたし、ラジオが高級文化を堕落させたと告発されたこともある。ドイツの思想家であるテオドール・アドルノは「ラジオは、ベートーヴェンの第五シンフォニーを、口笛で吹ける万人向きのメロディにしてしまった」と嘆いている。テレビは「1億総白痴化」の装置だと言われたし、最近は「ゲーム脳」だの「スマホ脳」だのという表現もよく見かける。つまりどのニューメディアもほとんどすべて有害だといわれてきた過去をもっているのだ。そうだとすれば、実はすべてのメディアは有害ではないのだろう。「何にでも効く薬」という評判に対しては、実は何にも効かないプラセボ(偽薬)かもしれないという懐疑は必要だろう。

ニューヨークの街中でテレビコマーシャルの撮影をしている人々
ニューヨークの街中でテレビコマーシャルの撮影をしている人々。

「自分たちの世代が知らないニューメディアは有害に違いない」と年長世代が主張するのは、彼らが伝統的な生活習慣に固執したいためであり、またニューメディアが社会変化をわかりやすく表象しているからだろう。メディア有害論は社会変化への違和感を正当化してくれる便利な議論なのだ。しかし、有害論は逆に有効性を裏付けるレッテルだから、メディアの効果を訴えたい広告媒体関係者、つまりメディア関係者がまじめに有害論を否定しようとは思わないはずだ。「そのメディアは無害だ」と認定されることの方が、本当はよほど怖いのだから。
だとすれば、メディアビジネスとしては「有害である」と評価されることは歓迎すべきことなのだ。「有効だ」と太鼓判を押されているようなものなのだから。