佐藤 卓己

佐藤 卓己

1969年ニューヨークの反戦集会。軍服のような服を着た男がアジテーションをしている。肩についているのはB52のおもちゃ。当時は徴兵逃れたい若者がニューヨークに集まっていた。集会には幼い子どもも参加。当時はデモが多く、反戦デモのほか保守系のデモや差別を扇動するデモもあった。

相当数の世論は、順応主義的付加物にすぎない

情報を届けることとはどのようなことなのか。編集部は『Modern Times』という新しいメディアの出発にあたり、改めて考えてみる必要があると感じた。
フェイクニュースや誤報などメディアが抱え続けてきた課題にはどのように向き合えばいいのか。あらゆるものがDX化していく将来において、メディアはどのように変化していくのだろうか。情報を受取る人というのは果たしてどこにいるのか。京都大学大学院教育学研究学科教授の佐藤卓己氏に聞いた。

Updated by Takumi Sato on November, 29, 2021, 9:00 am JST

フェイクニュースにみる真実に近づきたいという欲求

これは常々私が言ってきたことだが「フェイクニュースはSNSによって蔓延した」という考え方はメディア論において非常に問題がある。むしろ「流言」は「最も古いメディア」と言われることもあり、一般的に想像されるようなメディア、つまり新聞や雑誌やラジオやテレビといったものが出る以前から存在した。さらにいえば、口コミは人と人が直接対面するような状況の中では最も有力なコミュニケーション手段だったわけで、フェイクニュースの起源でもある噂話だったり、さも自分が見てきたかのようにおもしろく話を騙ったりするということはメディア以前からあるものだ。

さらに言えば、そのような口頭でのコミュニケーションは実は破壊的であるよりも創造的である。例えば我々の日々の会話のなかでも他人に向かってすべて真実を言うようなことはあまりない。つまり真実を言わないということは、ある意味では非常にイマジネーティブだし、状況に配慮して人を傷つけないためになされることもある。

重病を患い余命幾ばくもない人に「大丈夫ですよ」と声がけをすることは道徳的に責められることなのかと言えば、そんなことはまったくないわけだ。「やさしい嘘」というのは当然ある。つまりフェイクニュースが生まれるまでのコミュニケーションのプロセスは、本来は必ずしも否定されるものではない。

だからフェイクニュースというのが事実とは異なるゆえにすべて悪だ、というふうに考えること自体に私はメディア論者として抵抗がある。フェイクニュースと同じように危惧されるのは陰謀論だが、これは実は複雑な社会のシステムを知識がなくても理解できる一つの物語なわけだからそれ自身がどのような機能で働くかはともかくとして、それは世の中を理解するための方便、一つの手段であるといえる。つまり「陰謀論であるから悪い」と倫理的に悪のレッテルを貼ってしまうのも創造性がない。フェイクニュースや陰謀論を求めてしまうのは「真実に近づきたい」という欲求が私たちにあるからなのだ。

いろいろな人の異見が出てくるということは、真実に近づく第一歩だ。例えば間違っているものが否定されることによって実は真実に近づけるわけである。また逆に言えば、否定されなければ、それも一歩そのまま真実に近づくことになる。さまざまな人がいろいろな異見を述べて、ありもしないような、できっこないようなことを言ってみることが真実に近づく道だと考えれば、フェイクニュースも真実に近づくための一歩足り得る。アイディアを出し合うブレインストーミングのようなものだ。その中から創造的な何かが生まれる可能性は否定できないのである。

誤報を防ぐことは可能か

そもそも「事実」「真実」「現実」という言葉の使い方も難しい。使い分けなければならないが、それが正しく使い分けられるとしても、実際には正しく使い分けられているわけではない。
例えば「事実」といったとき、私はエビデンスベースで証明されるものが「事実」だと考えるが、「真実」は必ずしもエビデンスベースで証明されず、現実的には存在しない理念の可能性もある。

ある意味、生活の中では「真実」と「事実」は溶け合っていると言える。だからニュースというものはフェイクになりやすい要素を多分に含んでいる。というのは日常的に当たり前に起こるようなことはニュースとしてのバリューがないわけで、やはり珍しいこと、珍奇なこと、突飛なこと、あるいは見たことのないようなことがニュースになるからだ。そしてそれが外電であれば、国内メディアはエビデンスを示して証明するとか再現するということが難しいわけだから、そこに事実とは異なることが入り込むことはある意味で当たり前であるといえる。

だから「誤報をなくしましょう」ということ自体は実はナンセンスで、どんなにジャーナリスト個人が注意深くコンプライアンスに従って記事を書いたとしても誤報は起こりうる。だからこそ、「誤報は起こる」ということを前提にしてそれにどう対応するかということを考えないと現実的な対応にはならない。

ネバダ州にある小さな博物館に置かれていた古新聞
ネバダ州にある小さな博物館に置かれていた古新聞。故・ダイアナ妃について報じている。2018年撮影。保守的な思想を持つ人々が多い地域で、街中にはトランプを支持するポスターなどがたくさん貼られていた。

テレビ番組が噂話を取り上げるときに「諸説あります」というテロップを出すことがある。諸説あるという表現は、ある意味で言うと極めて学問的だ。しかしながらそのテロップは実はさまざまな意見があるということが言いたいわけではなくて、異なる意見もあるということを知っています、決してそれを無視していませんという予防線であり自分が中立的な立場に立って客観的な視点で見ていると主張するためのアリバイとして使われている。「諸説あります」とは、そう言い訳をすることで偏った意見を堂々と展開するために添えられているのではないか。