佐藤 卓己

佐藤 卓己

1969年ニューヨークの反戦集会。軍服のような服を着た男がアジテーションをしている。肩についているのはB52のおもちゃ。当時は徴兵逃れたい若者がニューヨークに集まっていた。集会には幼い子どもも参加。当時はデモが多く、反戦デモのほか保守系のデモや差別を扇動するデモもあった。

相当数の世論は、順応主義的付加物にすぎない

情報を届けることとはどのようなことなのか。編集部は『Modern Times』という新しいメディアの出発にあたり、改めて考えてみる必要があると感じた。
フェイクニュースや誤報などメディアが抱え続けてきた課題にはどのように向き合えばいいのか。あらゆるものがDX化していく将来において、メディアはどのように変化していくのだろうか。情報を受取る人というのは果たしてどこにいるのか。京都大学大学院教育学研究学科教授の佐藤卓己氏に聞いた。

Updated by Takumi Sato on November, 29, 2021, 9:00 am JST

マスコミュニケーションの最適化

マスコミュニケーション、マスメディアの「マス」の数字、具体的には新聞の部数やテレビの視聴率は明らかに落ちてきている。しかしそもそものところで1945年以前の戦前という時代に一家に1紙の新聞がとられていたかというとそんなことはないわけで、終戦後のしばらくの間も、新聞をとっている家が一般的だという感覚はなかったはずだ。おそらく、1950年代の末から60年代あたりに高度経済成長がある程度始まってテレビが各家庭に入ってくるようになったのとあまり変わらない時代に、新聞が本当に各家に配られるようになった。それが90年代末には崩れていった。おそらく新聞の部数が一番多いのは1997年あたりだから、それからずっと減ってきている。つまりほとんどの家庭に新聞があった時代はわずか40年ほどのことにすぎない。

40年という数字を考えてみると、例えばインターネットは95年を元年と考えると、既に25年が経過している。あと15年もすれば新聞の黄金時代の長さにある意味では匹敵する。そう考えると新聞がマスメディアとして持っていた力は、数によってそれほど変化しないのではないか。そもそもが、新聞が各家にない大正時代からマスコミの時代とは言われてきたように。

新聞はとられていたとしてもそれほど読まれていないという実態もあるはずだ。例えば私にしたって家へ帰ってから夕刊読むような時間もエネルギーもまったくない。朝刊にしても朝食の前に目は通すけれど、平均20分も読んでいるかどうか。

実はこの状況はリップマンが『世論』で書いているアメリカの1920年代の状況[大学生、実業家に対する調査で閲読時間15分との回答が70~75%]と変わらない。今の三十何面もあるような、新書3冊分といわれる文字数を毎日熟読する人は稀有だ。あれを全部読むなんてことは苦行以外のなにものでもない。そう考えると、メディアの影響力は必ずしもオーディエンスが直接に読むということを前提としないわけだ。

つまりマスメディアが発信するものは誰かが読んでいれば実はいい。カッツ、ラザースフェルドが言ったマスコミュニケーション2段階の流れというモデルがあるが、オピニオンリーダーが読んだものを「あの新聞にはこう書いてあったよ」と会話の中ですることによってマスメディアの影響力は拡大する。その意味では、実は今の新聞の発行部数が半分になることが大ごとかというとそうとも限らない。むしろこれまでも見栄や体面だけで買っていた人もおり、本当に多くの人に新聞が必要だったのかというと疑問が残る。

私がドイツに留学していたときに、勉強がてらSüddeutsche Zeitung(南ドイツ新聞)をとっていたら「えっ、おまえ、新聞読むのか。インテリだな」と同じ学生寮のドイツ人に言われたことがある。つまり普通のドイツの学生も新聞をあまり読まない。読むのはSpiegel、Sternなどのニュース週刊誌だった。アメリカで言えばNewsweek とかTIMEにあたる。そう考えると、各家に新聞が配られているという40年間の状況は国際的に見てやや異様だったと言えるかもしれない。

メディアは消えない

現代の日本社会は数の多い団塊の世代に最適化しているという面がある。だからこの世代がいよいよ退いていったときに、本当の意味でメディアは最適化できるかもしれない。

というのも、人間はどうしても成功体験の記憶に縛られるからだ。状況が変わりその方法では明らかに成功しないということがわかっていても、成功がもう一度起こるはずだと無理を重ね、結局状況に対応できなくなるということは歴史的に繰り返されてきた。団塊の世代というのはちょうど物心ついたころに新聞が家庭に届きはじめて、さらに少年期に入るとテレビが入ってきてそれを見続けた。マスメディアの成長とともに、あるいはその成功体験とともに育ってきたから、その呪縛から逃げられないのだ。一方でそういう輝かしい成功体験を持たない世代である若者たちなら、もしかしたら今の状況に応じた判断をすることもできるかもしれない。

南アフリカのオフィス街にて1980年代初頭に撮影
南アフリカのオフィス街にて1980年代初頭に撮影。アパルトヘイトの時代。強烈な日差しを避けるため売り子の女性が売り物の新聞を被ってしまっている。

今後あらゆるものがデジタル化していったとしても、紙は紙として残っていくというのが私の考えだ。おそらくメインストリームはタブレットで読めるよう何らかの形でデジタル化されていく。ただ一方ではビジネスとして成り立つように紙媒体を再構築していくのではないか。というのは、一度ビジネスとして確立したメディアがまったく消えたという例はないからだ。テレビが出たときにラジオが消えると散々言われたがそうはならなかったし、さらにさかのぼって新聞が登場したときも書籍はなくなるんだという議論だってあったがもちろんそうはならなかった。雑誌も生き残っている。だから既存のマスメディアが完全に消滅したり、ビジネスとして成立していたものがまったく消たりすることは考えにくく、何らかの形のそのメディアに最もふさわしい特性に特化して生き残っていくと考えている。

逆に考えると、消えたメディアというのはそもそもあるのかという問いが立つ。VHSはほぼ消えたと言えるかもしれないが、それはCD-ROMやブルーレイと機能的には同じだ。だから、VHSやそういう映像の記憶媒体を作っていたのとほぼ同じ会社が製造し続けている。基本的にはそのビジネスモデル連続的だ。例えばアナログのラジオとデジタルのラジオの差は送り手にとっては重要かもしれないが、受け手にとってはほぼ同じことだ。

メディア論は効果や影響力の議論だから、基本的には受け手について論じるもの。そうするとメディア論的見地からみればビデオレコーダーでもブルーレイレコーダーでも基本的には同じメディアだ。そうすると完全に消えたメディアというのはないのではないか。