佐藤 卓己

佐藤 卓己

2018年ごろ撮影されたラスベガスのストリップに架かる歩道橋。宵の口は人通りが絶えないが、深夜にはまばらになっていく。

国民社会主義(ナチズム)は、
共感と合意の運動である

民主主義の価値が改めて語られる機会が増えている。しかし人々が「民主的である」と感じる瞬間は、実際には民主主義の対義語で語られるような政治的シーンであることもある。「民主的である」と感じさせる感覚は時の為政者や現代のメディアに巧みに利用されているのだ。人々が「民主的である」と感じるのはどのようなときか、それはどのような感情で成り立っているのか、メディア論を専門とする歴史学者・佐藤卓己氏に聞いた。

Updated by Takumi Sato on December, 6, 2021, 9:00 am JST

自尊感情を無視して政治はできない

マスメディアの「マス」とは、そもそも塊を指す。だから集団の意味を持つし、大量という意味もある。マスプロダクトとは大量生産のことだ。つまりマスメディアは、マスソサエティを維持するマスコミュニケーションのために存在する。
マスを政治に参加させる大衆民主主義の時代においては、知識や教養のない人たちにも1票の投票権を与え、政治に参加させることが必要になる。エリートだけが、あるいは市民階級、つまりブルジョワ階級だけが投票する政治よりもより民主的だというのが現在の民主主義だ。

パキスタンでは派手にデコレーションされた乗り合いバスが走る
パキスタンでは派手にデコレーションされた乗り合いバスが走る。行き先も、走る道も、乗せる客の人数も運転手が自分で決める。

19世紀の市民社会から20世紀的な大衆社会への流れは、基本的には普通選挙権の拡大を一つのメルクマールにしている。そうした歴史的展開を考えれば、民主主義とは何かというときには、「政治に対して自分が参加していると感じているかどうか」が最重要になる。逆にいえば、人々が政治に参加しているという感覚が低くなれば、「それは民主的ではない」との声が高まる。

「参加している」ことが人々に喜びを与え、自尊感情を高めることの重要性は、今もおそらく変わらない。例えば、アメリカの現代政治でも「自分たちは政治から疎外されている」と感じた白人の労働者階級がトランプの集会場に行って声を挙げた。そこでは「自分たちも政治に参加している」と感じることができ、彼らの自尊感情が承認されている。こうした承認欲求を無視して大衆政治を行うことはできないのではないか。そんなものを無視して政治をした方が本当は高尚かつ芸術的な政治になるのかもしれないが、やはり今の社会ではそれはできない。

一般に世論(よろん)と言われるものを、私は世論(せろん)popular sentimentsと輿論(よろん)public opinionに分けて語る。実際に現代政治を動かしているのはpublic opinionというより圧倒的にpopular sentimentだ。最近のメディア研究者はそれを「情動社会」と呼ぶ。議会にブルジョワ階級しかおらず、投票権も教養と財産のある市民しか持たなかった時代には輿論public opinionによる政治というのは理念型としてあり得たが、現在では中国のような一党独裁の政治体制を除けば、世論popular sentimentsを無視した輿論政治は普通の国家では理想化できない。

実際の参加よりも重要な「参加感」

日本は参加型社会かどうか。それは、「参加が実際に行われているか」を問うか「参加感を多くの人が持っているか」を問うかで答えが違ってくる。政治的には「参加」より「参加感」の方がはるかに重要である。そもそも政治に「参加する」のも「参加させる」のも現実的にはかなり難しい。実際何らかの形で政治に参加しようと思えば、それを議論するための知識を仕入れ、都合をつけて集まるなどの努力が必要だ。しかし普通の人にとってはそんなことをするよりも、お酒を飲んで友達としゃべっているほうがよほど快適だからだ。だからそういう人でも参加ができるよう、参加のハードルを極力下げることも必要となる。ラジオで流れてくるヒトラーの演説に「そうだ、そうだ」と共感するのもその一種だが、それはファシズムだけの政治手法ではない。同時期にルーズベルトが行ったニューディールの炉辺談話とどこが違うのか。大衆に参加感覚を与えるという機能は変わらない。

今の日本では参加感覚を持てないために「政府がお友達だけで政治をやっている」と感じている人が多いらしい。政治的な参加感覚を十分に与えることに与党も野党も成功しているとは思えない。だからワイドショーで扱える「モリカケ問題」のようなネタだけが大きな争点となる。内閣支持率は国民感情指数だが、参加感覚率と置き換えても大体通用する。つまり、「今のこの政治に自分は関わりたいと思いますか」という問いに対する答えだ。「支持する」という回答は最も低いレベルの参加感覚であり、その参加感覚が低くなれば内閣支持率も政党支持率も当然低くなる。

新潟県上越市にある小さな村・中ノ俣
新潟県上越市にある小さな村・中ノ俣。限界集落だが、祭りの時期には全国から住民の家族が集まる。大人も子どもも祭りの楽しみ方を知っている。

参加感覚の重要性はスポーツ観戦で考えるとわかりやすい。どこかのチームを応援することはまさに参加感覚であり、それがなければ楽しみは半減する。一般的に政治に参加することはリスクが伴うが、スポーツ観戦で得られる参加感覚はノーリスクで快のリターンがあるため、大衆には支持を得やすい。ただ見ているだけで高い参加感覚を得られるスポーツ観戦は、まさに大衆ジャーナリズムとパラレルの関係にあるのだ。

プロ・スポーツはそうした観客民主主義的なビジネスの上に成り立っている。それまでスポーツは基本的に貴族の遊びで、労働に代わるレジャーだった(有閑階級はまさにleisured classといわれる)。市民(ブルジョア)社会の末期、つまり19世紀末にプロ選手と労働者階級を排除してオリンピックがスタートしたのも決して偶然ではない。