佐藤 卓己

佐藤 卓己

2018年ごろ撮影されたラスベガスのストリップに架かる歩道橋。宵の口は人通りが絶えないが、深夜にはまばらになっていく。

国民社会主義(ナチズム)は、
共感と合意の運動である

民主主義の価値が改めて語られる機会が増えている。しかし人々が「民主的である」と感じる瞬間は、実際には民主主義の対義語で語られるような政治的シーンであることもある。「民主的である」と感じさせる感覚は時の為政者や現代のメディアに巧みに利用されているのだ。人々が「民主的である」と感じるのはどのようなときか、それはどのような感情で成り立っているのか、メディア論を専門とする歴史学者・佐藤卓己氏に聞いた。

Updated by Takumi Sato on December, 6, 2021, 9:00 am JST

政治学とは異なるメディア論の視点

つまり大衆の参加感覚が肯定される度合いが民主主義の指標である。だがそれは政治学の民主主義、その価値や規範の議論とは無関係だろう。
私が大学でメディア文化論の講義をするときには、まず「メディア論とジャーナリズム論は全く異なる」と話す。ジャーナリズム論は内容の真偽を問題とする。だから誤報が悪い、流言も悪いは当たり前である。しかし、メディア論は形式の効果や影響力の大小を論じる学問だ。内容が間違っていても影響力の大きいニュースならメディア論の重要な対象になる。むしろ、どのようにすれば影響力が大きくなるのかを考える場合が多い。そこで内容の真偽は第一義的に重要なものではない。例えばフェイクニュースはジャーナリズム論では「悪」としかならず、それ以上の掘り下げはできない。しかしメディア論ではまず影響力の大小を考えるわけだから、フェイクかどうかは第二義的である。むろん、それが悪影響を及ぼすものであるならばその影響をいかに最小限に抑えるのかを考えるのもメディア論的な思考だけれども。

参加感覚のためなら、よろこんで他者の富を生産する

2018年に『現代メディア史』を新版に書き改めたとき、終章「情報の未来史」に認知資本主義の話を書き加えた。GAFAのような企業は広告収入によって利益を得ているが、その財は誰が生み出しているのかというと私たちがSNSに書き込む情報や、どのような動画を見ているかという嗜好のデータだ。私たちは「娯楽で見ている」、あるいは「暇つぶしで書き込んでいる」と思っていても、実はその娯楽、暇つぶしの「認知労働」が富を生み出しているのだ。だから労働を従来の肉体労働や賃労働などとは違うレベルで定義することが必要になってくる。これまでは消費と労働が別物だと考えられてきたが、これからはむしろ消費こそが労働になる時代なのではないか。消費こそが情報という商品を生み出している。もしくは、認知が財貨を生み出していると言っていいかもしれない。
メディアはある意味、認知の生産装置のようなところがある。SNSはそれを大量生産している。普通の人がSNSに書き込む認知労働によって富は日々生み出されているわけで、それが富の源泉なのだ。
ではなぜ人々が喜んで認知労働に興じるかというと、これが万人に参加感覚を与えてくれる民主的なシステムだからだ。参加を通じて自尊感情を高める装置がSNSだと言えるかもしれない。自分のことを見てほしい、日記を読んでほしいという人たちが大量にいる。「いいね」のメカニズムは参加により自己肯定感を増大させるべく設計されている。
これを「幸せな愚民社会」と呼ぶ人もいるだろうが、大衆が参加感覚、それによる自己肯定感を得たいという気持ちは今に始まったことではないわけで、それが得やすい社会はまず民主的な社会といえるのかもしれない。

本文中に登場した書籍一覧
『大衆の国民化――ナチスに至る政治シンボルと大衆文化』 著 ジョージ・L・モッセ 訳 佐藤卓己 佐藤八寿子(ちくま文芸文庫 2021年)
『ファシスト的公共性』 著 佐藤卓己(岩波書店 2018年)
『流言のメディア史』 著 佐藤卓己(岩波新書 2019年)
『現代メディア史 新版』 著 佐藤卓己(岩波書店 2018年)