村上陽一郎

村上陽一郎

聖地・カイラス山を詣でるチベットの家族。子どもを連れて山道を歩く人もいる。標高6656mのカイラス山はチベット仏教徒、ボン教、ヒンドゥー教徒たちの聖地だ。

真の科学者へと駆り立てるのは
神秘の感覚である

前回の章末で、村上陽一郎氏は「選択と集中」の危うさに言及した。では、「選択と集中」は悪といえるのだろうか。村上氏の答えはそうではない。ただそれを賢いものにするための「あるもの」を持つことが大切だという。デジタル化によりあらゆるジャンルで変革が進む今だからこそ知っておきたい、科学の進歩を考えるための論考第3弾。

Updated by Yoichiro Murakami on January, 11, 2022, 9:00 am JST

「選択と集中」は悪か?

前にも述べたように「選択して集中する」という手法は常に正しいわけではない。それが有効に働く場合、つまり選択が賢明であり、しかもその選択したものに集中的にリソースを注ぎ込むことができた場合にのみそれは正しかったといえるのであって、それは結果が出てみないとわからない。

ここから先は私の持論だが、選択と集中は全面的に間違っているわけではない。今述べたように、成功する例もあるからだ。ただ、選択する選択肢が十分な考慮のもとに並べられているかということと、それから「the way not taken」で、本当に他に選択肢がないのかと疑いを常に持つこと、その姿勢は重要である。それがあれば当然、あるものを選び取ってそれに集中することにためらいが生じる。そのようなためらいをリーダーが持つことは一般的には非難されることが多い。しかし「ネガティヴ・ケイパビリティ」という言葉を用いて考えると、そのためらいは全く悪いことではない。

ネガティヴ・ケイパビリティとは元はイギリスの詩人であるジョン・キーツが著した概念で、私はこれを作家の帚木蓬生氏に学んだわけだが、「何かことを決めるときにはためらいなさい。ためらう勇気を持ちなさい。そういう勇気を持つ能力をネガティヴ・ケイパビリティだ」ということになろうか。

帚木氏は作家と同時に精神科医であり、その診療においてもネガティヴ・ケイパビリティは重要だと説く。病院にやってくる患者がいれば、通常医師は「これはうつ病だ」「これは統合失調症だ」と診断をくだし、症状をすぐに病気の名前でくくりたがる。くくりたがるというか、くくらないと治療ができない、薬出すこともできないのが医療の現状なのかもしれない。しかし身体の病気よりも遥かに精神の問題は多様な形をとるし、一つの兆候だけで簡単に網をかけて、病名を決めて、その枠のなかで薬やら入院措置やらの治療法を決めていくことは極めて危険な領域なのだと、専門家の見地からお考えになっているようだ。

選択肢の枠外のものを検討する「ゆとり」

現在のリーダーは、果敢な判断力と実行力と人を引っ張っていく力などがまず求められる。それは一概に間違いだとはいえないが、例えば岐路に立ったときに「こっちに行くんだ」という選択をズバリとやれる能力も持ちながら、「待てよ」と立ち止まれる能力を持つことはさらに可能性を増やす。「こっちへ行くことは必然なのか、別の見方をしたらもしかしたら別の選択肢が見えるかもしれない。どのくらいかかるかわからないけれど、考えてみよう」。そういうためらいを持つことが通常の言葉で言えば、ゆとりなのではないか。選択と集中というと「これしかない」と選択肢が決まっていて、その中でのベストを選ぶことになる。けれどそもそもその枠組みを外してみるだけの、ゆとりや度量といったものが人間には必要なのではないだろうか。

真の科学者へと駆り立てるのは神秘の感覚である

今、日本の研究機関で発表される科学論文が少なくなってきていることから、研究費の選択と集中を含め、科学者が論文を量産できるような仕組みづくりが議論されている。しかし、『ヘラクレイトスの火 自然科学者の回想的文明批判』でE.シャルガフはこう書いている。

「私に言わせれば、真の科学者へと駆り立てるのは神秘の感覚である。見えずに見、聞かずに聞き、そして無知覚に記憶する力、その同じ力、それがさなぎを蝶に変える。そのとき、背骨を走り下りる冷たい旋律。その息吹が涙する感動へと誘うような、広大で、不可視の顔(かんばせ)との出会い。それを少なくとも生涯の間に一回でも体験したことのない人は科学者ではない」

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モンゴルの冬。気温はマイナス20℃ほどまで下がるが、夜も若者は馬へ乗ってでかけていく。放牧している家畜がオオカミに襲われないよう見張りをするためだ。

論文を書くときにこの感覚が少しでもある人が科学者だといえるのではないか。そうでなければ、それは科学サラリーマンになってしまう。今の科学者たちは「ジャーナルに受け入れてもらえるような論文を、something-newを発表せねば」と急き立てられ、そこでみな四苦八苦しているが、科学とは本来自然の神秘に触れることだ。そのときに覚える総毛立つような感動を求めるのが本当の科学者なのだ。ノーベル賞をもらうような発見も、受賞のためではなく、そのような感動に出会った結果だったはずだ。

ところが今の科学の世界では、そのような神秘に触れる機会が少なくないままに、成果、それも社会的利得がありそうな成果がひたすら求められている。科学が余りにも世俗的なものになってしまった。神秘に触れるような思いを持とうとは思わず、「これを研究すれはノーベル賞もらえるか」とか「これを実現できれば、製薬会社が買いに来てくれるか」といった利益を考える気持ちが優先となり、感動にどこかで接したい、そういうものにめぐり逢いたいと思っている人が科学の道を選ぶ時代ではなくなっている。

研究者が利益のためだけに生きれば、自然の解明は滞る

これは一部の研究者を批判することになるが、明らかにノーベル賞をもらうために科学者をしている人もいる。すると行動原理が自然の解明のためではなく、自身の利益のためになっていく。

iPS細胞を開発した山中伸弥氏は、マスメディアの前で話すときに、ほとんど必ず研究のパートナーであった高橋和利氏について触れる。「彼の仕事がなかった自分の仕事の成功はない」とまで言われることもある。それだけの謙虚さを備えておられる。しかし時には、パートナーの協力を無視しようとする人もいる。

もっとも実際問題として、今の時代の研究者は、そのくらいのことをしていた方が成功への道が広いのかもしれない。DNAの二重らせんの構造を発見したジェームズ・ワトソンなどがいい例だ。彼は著書『二重らせん』のなかで、ライヴァルの研究チームとのスパイ合戦を得々と書いている。お互いに相手を出し抜くために、わざとレベルを落とした研究内容を相手のスパイに見せつけたりしている。ほかにも、彼は色々社会的に物議をかもす発言や行動をすることで知られている。

例えば、ワトソンがノーベル賞を受賞した後にIRB(Institutional Review Board)という機関ができた(日本では倫理委員会と翻訳されているが本来はどこにも倫理という言葉は出てこない)。医学や生理学などの分野の研究者は、この機関の中の組織に、研究計画や研究素材の費用、人材などを全部細々と書き上げた計画書を出して承認をもらわなくてはその研究をしてはならないというガイドラインが1975年にできたわけだが、このときにワトソンは、「IRB? 女性を委員長にしとけばいいよ。」と言ったという。こうした傾向は、分子生物学の世界に限ったことではなくなっているが、シャルガフは「自分は分子生物学者ではない。自分がやっているのは生化学である」と述べているのも面白い。もっとも、ノーベル賞を貰いそこなった「ひかれ者の小唄」と一蹴されることにもなろうか。

Something new-ismのために生きるのか

私はノーベル賞がこれまでにそれほど大きなミスを犯しているとは思わない。しかしこれからを考えたときには「もういいだろう」というのが私の考えだ。

日本人にとって、賞委員会が北里柴三郎を選ばなかったのは、別段国粋主義や国家主義ではなく、公平に考えてミスだった、と私は思う。北里はベーリングと一緒に、破傷風の血清療法を生み出した。二人で取り組んだことなのに、結局ノーベル賞はベーリングしかもらえなかった。これは今だったら必ず二人でもらっていたはずだが、当時、国籍に関する思惑が働いたと解釈されている。

今の世の中、凡百の一般的な研究者は、まさにsomething new-ismで生きられる。しかし野心的で「ノーベル賞をとってやろう」と考えるような研究者は、一番それが狙えそうなポイントに照準を定める。まさに選択と集中をするわけだ。それで成功する研究者は、目利きの力は間違いなくあったと言えるかもしれない。念のためだが、現在のノーベル賞受賞者が、そうした単なる野心家に過ぎない、と言っているのではない。誤解のないように。

しかし私にいわせてみればノーベル賞を「とる」という言葉自体が、間違っている。かつてノーベル賞授賞式を終えて帰国した野依良治氏に、新聞記者が「野依先生、ノーベル賞受賞おめでとうございます。ノーベル賞を取る秘訣はなんですか?」と訊き、「ノーベル賞はとるもんじゃない」とたしなめられた、というエピソードがある。その通りだろう。

だがそもそも研究者が目先の利益優先になってしまうのには、研究者が食えないという状況の方に問題がある。

実際に山中伸弥教授も任期つきポスドクたちへの支払い関係のためか、長く資金集めのためのアクションを続けていた。今研究機関の常勤ポストは、極めて厳しい状況にある。そこでポスドクはみなそれぞれの研究を続けるために、五年くらいのプロジェクトの非常勤ポストに就いて、そこそこの生活費と研究費を確保し、それが終わるとまた別の五年プロジェクトへ行って……という状況を繰り返している。しかしながら、それで四十歳くらいになったとき、新しい常勤ポストに就くことは非常に難しいのである。

ポストドクター等一万人支援計画」の原案が科学技術会議の政策委員会に初めて提案されたとき、担当者に、「出口については、何か方策をお持ちですか」と尋ねたことがある。答えは、アメリカやヨーロッパに調査団を派遣して、状況を調査中で、対策立案には間に合わせます、とのことだった。緊急提案であることは判るが、やはり、日本社会特有の問題先送りの姿勢は、気になったことを覚えている。「選択と集中」という問題に引き寄せれば、第一に、選択肢の提示の際に、その段階で考え落としのないと思われる熟慮と、第二に、集中の実行に当っては、いつでも引き返せる「ゆとり」とが必要で、この場合は、第一の点で不十分であったことは否めないだろう。

本文中に登場した書籍一覧
ヘラクレイトスの火 自然科学者の回想的文明批判』 著 E.シャルガフ 訳 村上陽一郎(岩波書店 同時代ライブラリー 1990年)
二重らせん』著 ジェームズ・D・ワトソン 訳 江上不二夫、中村桂子(講談社文庫 1986年)