村上陽一郎

村上陽一郎

聖地・カイラス山を詣でるチベットの家族。子どもを連れて山道を歩く人もいる。標高6656mのカイラス山はチベット仏教徒、ボン教、ヒンドゥー教徒たちの聖地だ。

真の科学者へと駆り立てるのは神秘の感覚である

前回の章末で、村上陽一郎氏は「選択と集中」の危うさに言及した。では、「選択と集中」は悪といえるのだろうか。村上氏の答えはそうではない。ただそれを賢いものにするための「あるもの」を持つことが大切だという。デジタル化によりあらゆるジャンルで変革が進む今だからこそ知っておきたい、科学の進歩を考えるための論考第3弾。

Updated by Yoichiro Murakami on January, 11, 2022, 9:00 am JST

Something new-ismのために生きるのか

私はノーベル賞がこれまでにそれほど大きなミスを犯しているとは思わない。しかしこれからを考えたときには「もういいだろう」というのが私の考えだ。

日本人にとって、賞委員会が北里柴三郎を選ばなかったのは、別段国粋主義や国家主義ではなく、公平に考えてミスだった、と私は思う。北里はベーリングと一緒に、破傷風の血清療法を生み出した。二人で取り組んだことなのに、結局ノーベル賞はベーリングしかもらえなかった。これは今だったら必ず二人でもらっていたはずだが、当時、国籍に関する思惑が働いたと解釈されている。

今の世の中、凡百の一般的な研究者は、まさにsomething new-ismで生きられる。しかし野心的で「ノーベル賞をとってやろう」と考えるような研究者は、一番それが狙えそうなポイントに照準を定める。まさに選択と集中をするわけだ。それで成功する研究者は、目利きの力は間違いなくあったと言えるかもしれない。念のためだが、現在のノーベル賞受賞者が、そうした単なる野心家に過ぎない、と言っているのではない。誤解のないように。

しかし私にいわせてみればノーベル賞を「とる」という言葉自体が、間違っている。かつてノーベル賞授賞式を終えて帰国した野依良治氏に、新聞記者が「野依先生、ノーベル賞受賞おめでとうございます。ノーベル賞を取る秘訣はなんですか?」と訊き、「ノーベル賞はとるもんじゃない」とたしなめられた、というエピソードがある。その通りだろう。

だがそもそも研究者が目先の利益優先になってしまうのには、研究者が食えないという状況の方に問題がある。

実際に山中伸弥教授も任期つきポスドクたちへの支払い関係のためか、長く資金集めのためのアクションを続けていた。今研究機関の常勤ポストは、極めて厳しい状況にある。そこでポスドクはみなそれぞれの研究を続けるために、五年くらいのプロジェクトの非常勤ポストに就いて、そこそこの生活費と研究費を確保し、それが終わるとまた別の五年プロジェクトへ行って……という状況を繰り返している。しかしながら、それで四十歳くらいになったとき、新しい常勤ポストに就くことは非常に難しいのである。

ポストドクター等一万人支援計画」の原案が科学技術会議の政策委員会に初めて提案されたとき、担当者に、「出口については、何か方策をお持ちですか」と尋ねたことがある。答えは、アメリカやヨーロッパに調査団を派遣して、状況を調査中で、対策立案には間に合わせます、とのことだった。緊急提案であることは判るが、やはり、日本社会特有の問題先送りの姿勢は、気になったことを覚えている。「選択と集中」という問題に引き寄せれば、第一に、選択肢の提示の際に、その段階で考え落としのないと思われる熟慮と、第二に、集中の実行に当っては、いつでも引き返せる「ゆとり」とが必要で、この場合は、第一の点で不十分であったことは否めないだろう。

本文中に登場した書籍一覧
ヘラクレイトスの火 自然科学者の回想的文明批判』 著 E.シャルガフ 訳 村上陽一郎(岩波書店 同時代ライブラリー 1990年)
二重らせん』著 ジェームズ・D・ワトソン 訳 江上不二夫、中村桂子(講談社文庫 1986年)