村山司

村山司

オーストラリアの内陸部。風車で水を吸い上げている。

(写真:佐藤秀明

世界には無数の「言語」が隠されている

AIと人間の差をコミュニケーションに求める人は多い。しかし、そもそもコミュニケーションとは何なのだろう。それは人の言語や心の動きだけを解析していれば、理解できるものだろうか。
世界にはコミュニケーションをする生物が無数に生きている。
長年イルカの研究を続けてきた海獣学者の考察を通して、コミュニケーションの根源を探ってみよう。

Updated by Tsukasa Murayama on January, 27, 2022, 8:00 am JST

「あいさつ」は動物的コミュニケーション

「向こう三軒両隣」という言葉がある。家の向かい側の三軒と左右両隣の家を合わせた家々のことで、親しくお付き合いしているご近所さんのことをさす言葉として用いられている。引っ越しをしてきたときには、まず初めにこれらの家々にあいさつをして回るのが古くからの習慣とされてきた。

動物どうしが初めて出会うときはお互いに緊張の瞬間である。相手が襲いかかってこないか、エサを横取りされないか、あるいはいっしょに遊びたいのではないか…など、さまざまなことを想像しているにちがいない。とにかく、相手の行動を予測したり、識別したりしないとこの緊張はほどけない。
そうした緊張をほどくために動物たちは「あいさつ」をする。動物ごとに決まったやり方に従って情報を交換し合うが、あるものはにおいをかぎ(たとえばイヌ)、あるものは互いの頭や額をこすりつけ合う(たとえばライオン)。そうすることで相手が誰で、どういう心境にいて、これから何をしようとしているのかを感じとることができる。すなわち、これが動物たちが出会ったときの最初のコミュニケーションである。引っ越していったときに向こう三軒両隣にあいさつに出向くのも、そうしてご近所さんの顔ぶれやその雰囲気を感じたり、自分のことを知ってもらうためであり、それがご近所さんとの最初のコミュニケーションになる。

信号は相手のふるまいに影響しなくてはならない

そもそもコミュニケーションとは何だろう。辞書や本を紐解けばいろいろな専門家がさまざまな定義を語っており、いずれも長い解説がついている。みな納得できるものばかりだし、ふだんの生活を顧みれば身に覚えのあるものも少なくない。どうやらコミュニケーションの定義は一つとは限らないようで、それだけさまざまなコミュニケーションのしかたがあり、一言では言いきれないくらい複雑なものであるということらしい。ただ、現象だけ見ていると、情報の送り手とそれを受け取る側とのあいだで行われる特定の「信号」を用いた情報のやり取りにはちがいない。

動物の世界ではこうした信号には繁殖、採食、防御といった目的を持つ情報が含まれており、それらを満たすよう要求し合っている。さらに高度なコミュニケーションとしては、単に要求の情報を伝達し合うだけでなく、感情や情動のやり取り、すなわち心の伝達までも含まれる。
しかしただ信号を送りさえすればよいわけではなく、そうした信号によって相手のふるまいが変われば、それはコミュニケーションが成立したと言える。そして、複数の個体が相互に情報や意志・感情を共有できれば、その集団の凝集性も強まっていく。すなわち、きずなや信頼関係といった、種々の社会的関係が作られていくという機能や効果がある。

シグナルとメッセージの根本的な違い

大雑把に言うと、コミュニケーションには「合図・シグナル」と「メッセージ」とに大別できそうである。
シマウマは雌雄でからだの模様が違うし、イヌは尿のにおいで自分の縄張りを示す。ベニザケは繁殖期になると体色が紅色に変わる。こうしたシグナルは種や性別、その個体の状態などを表す合図である。それは遺伝的に決まっていたり、ホルモンなどによる生理的な反応の結果だったりするが、模様や色を自分で決めているわけではないし、自分のからだがそういう変化を起こしていることを知らない可能性すらある。つまり、このシグナルは動物自身の意思ではない。特定の個体に向けたものでもなく、一方的に合図を送り続けている。だから、誰かがそれに気づき、受け手になるものが存在しないとコミュニケーションにならない。

これに対して、メッセージは相手に情報を伝えたいという能動的な行動である。そこには「意思」のようなものが働いているとも考えられる。自分が誰で、何のために、どう伝えるか(「強く」とか「大きく」とか)といった情報を込めた行動になる。動物は実にさまざまなメッセージによるコミュニケーションを行っているが、ヒトがしているコミュニケーションの多くがこれである。

また、そこには非言語的なコミュニケーションと言語的なコミュニケーションがある。たとえば、居酒屋で飲みほしたビールのジョッキを店員に振りかざすと店員はジョッキいっぱいのビールを持ってくる。言語を介さなくても目的は達せられている。これに対して言語的なコミュニケーションは声や文字のような媒体が必要である。