良き市民は対話に希望を見出す
あなたは、どの立場なら対話に参加したいと思うだろうか。実は、私が修復的正義や対話をテーマにした講演会やワークショップで、このお話をすると、多くの人が感動する。どの立場でも対話をしたいという人もいる。誠くんが車を盗むに至る背景には、彼の苛烈な生い立ちがあった。石田さんが誠くんに同情的なのは、彼もまた後ろ暗い過去を持っているからだ。清水さんが誠くんへの怒りを抑えられないのは、彼女の厳しい経済状況がある。春美さんが、息子の犯罪を止めて救えなかったのは、彼女自身も誰にも助けてもらえなかったからだ。そして、一つの車泥棒の事件の背後には経済格差や福祉の問題が潜んでいる。対話の中で起きていることは、人々のストーリーの交錯である。犯罪によって偶然、結びつけられた参加者たちが、対話を通して「加害少年の更生」という一つの目標に向かって、進み始める。この対話は、お互いの意見をぶつけ合うような議論ではない。誰が正しいのかを競うわけでもない。過去に起きたことに向き合うなかで、よりよい未来へ向かって歩き出そうとする。この事例では参加者が話し合う中で、そのプロセスが自然発生している。そして、こんなことを可能にする修復的正義に強く惹かれる人も出てくる。特に、自分が誠くんの立場であれば、こんなふうに自分の事情を話して理解してもらう機会がほしいと思う人は少なくない。良き市民である人々は、修復的正義の対話の力に希望を見出すのである。
対話の力を信じられない加害者たち
他方、この対話の事例は、加害者に寄り添うようなストーリーになっている。被害者が加害者に手を差し伸べるような描写は、加害者に「自分はゆるしてもらえるのだ」という甘い考えを抱かせるのではないかという懸念を抱く人もいるかもしれない。もっと、被害者の傷つきに焦点を当て、加害者に対して怒りや憎しみをぶつける展開のお話を望む人もいるかもしれない。ところが、このお話は加害経験のある人たちに評判が悪い。私は犯罪歴のある人たちに、同じ事例を説明したことがある。かれらの大多数の意見は「こんなのは現実的ではない」だった。ある人の「こんな被害者だったら、対話したいけどさあ」という言葉が心に残っている。かれらにとって、石田さんや清水さんのような被害者は絵空事で、リアリティがないと感じられたのだろう。誠くんの態度に対しても、こんなのはその場限りの演技で、嘘に違いないと断言する人がいた。また、自分は被害者の立場になっても、過去に起きたことは水に流して生きていくから、対話など必要ないのだと話す人も出てきた。つまり、対話の力を全く信じておらず、対話を求めないのは加害経験のある人たちのほうである。対話に希望を抱く良き市民と対照的に、加害体験のある人は対話に対して冷めている。
そもそも、この事例は架空のフィクションである。あまりにも美談にすぎる。いくらトレーニ ングを積んだファシリテーターがいるとはいえ、こんな都合の良い展開が実際の対話で起きるのだろうか。だが、驚くべきことに、前述したアンブライトの『被害者・加害者調停ハンドブック』によれば、ミネソタ大学の調査では対話に参加した被害者の満足度は8割を超える。修復的正義ではほかにも実証的な研究が多数行われているが、少なくとも裁判よりは対話の参加者のほうが、満足度が高い。また、修復的正義のプログラムは、軽犯罪だけではなく殺人や性暴力、教育や福祉の場での暴力など、さまざまな類型に応じて発展している。さらに、家族関係の改善を目指すFGC (Family Group Conference)や、コミュニティの人々の交流を促進するサークルなど、直接の被害者・加害者対話だけではなく、より柔軟で広い対話実践も行われている。つまり、修復的正義の対話は夢物語ではなく、現実的に有効な実践なのである。