小松原織香

小松原織香

1966年から1969年の間に撮影。ニューヨークのグリニッジビレッジ。当時はヒッピーが若者を代表していた時代。モダンジャズのプレイヤーが道を歩いていた。

(写真:佐藤秀明

「話し合いで解決すればいい」の真実

ネットが普及した社会においては、これまで接点を持ち得なかった人とも傷つけ合うことが起こりうる。
取り返しがつかないほどの痛手を負わせたとき、その修復にはどのような手段が有効なのだろう。
修復的正義の研究者・小松原織香氏が解説する。

Updated by Orika Komatsubara on January, 28, 2022, 9:00 am JST

対話をめぐる二つの思い

みなさんは、修復的正義の対話に希望を見出すだろうか。それとも、ご都合主義だと退けるだろうか。実は私は「良き市民」より「加害経験のある人たち」に立場が近い。私は対話が嫌いなのである。そもそも、私は被害・加害関係にある人どころか、価値観の違う人と話すだけで疲れてしまう。できれば気の合う人と気ままにおしゃべりしていたい。暴力や犯罪が起きたとしても、私自身は可能な限り対話を避けたい。それにもかかわらず、私は修復的正義の研究者になってしまった。私が対話に惹きつけられるのは、二つに引き裂かれる想いがあるからだ。一方に、「対話なんてしたくない」という億劫さがある。できれば、誰とも対話せず、安穏と生きていきたい。他方に、「対話には希望がある」という夢想がある。対話によって分断された被害者・加害者が、一つの未来に向かってともに歩み出すという美しいビジョンである。しかも、このビジョンは科学的調査によって実現可能だというデータが示されている。夢と現実。私はその二つの間を揺れ動きながら、修復的正義の研究を続けている。

では、なぜ、私は引き裂かれるのだろうか。大きな理由の一つは、私が被害経験を持つことにあるだろう。私は19歳の時に性暴力の被害にあった。それからずっと、加害者について考え、対話の可能性を探究し続けてきた。その経験を元にした新著『当事者は嘘をつく』が、筑摩書房より近日出版される。暴力や犯罪によって深く心が傷ついた被害者もまた、対話への不信を持つことがある。孤独のなかで、「話してもわかってもらえない」「理解されなくても良い」という諦念に至るのである。そこで次回は、自分の経験も踏まえて、被害者の視点から修復的正義と対話の可能性について考えてみたい。

本文中に登場した書籍
被害者・加害者調停ハンドブック: 修復的司法実践のために』 著 M.S.アンブライト、監訳 藤岡淳子(誠信書房 2007年)
当事者は嘘をつく』著 小松原織香(筑摩書房 2022年1月31日発売)