小松原織香

小松原織香

1969年ごろ撮影。雪が残るニューヨークのセントラルパーク。

(写真:佐藤秀明

私たちに残された「対話」という道

心身に大きな傷を負ったときの修復方法に「対話」という手段があることを小松原織香氏は過去2回の連載で示してきた。今回は修復的正義がもたらす効用を紹介しつつ、小松原氏自身の経験を踏まえてこの研究を続けている意味について述べてもらう。

Updated by Orika Komatsubara on February, 18, 2022, 8:50 am JST

対話で自分の力を取り戻す

では、実際の対話はどんな風景が広がるのだろうか。修復的正義の研究者や実践者は、数多くの動画を製作してきた。欧州修復的正義フォーラムでは、ウェブサイトに関連する映画やドキュメンタリーのリストを掲載している。そのなかには、性暴力被害者と加害者の対話の映画「The Meeting」も含まれている。「The Meeting」は真実を元にした対話の再現ドラマである。そして、被害者であるアルバ・グリフィスと、修復的正義の実践者であり研究者であるマリー・キーナンが本人役で参加している。(加害者はプロの役者が演じた。)残念ながらこの映画は日本ではソフト化されておらず、日本語字幕もないのだが、ウェブサイトから有料で視聴することができる。グリフィスは、見知らぬ男に襲われて性暴力の被害に遭う。男は逮捕されて刑務所に収監された。映画の冒頭では、グリフィスが被害に遭った当時の証拠資料も映し出され、過酷な暴力の痕跡を観客は目の当たりにすることになる。そのまま映画は進み、事件から9年後に、被害者と加害者が同じ部屋で自分たちの暴力の経験を率直に語り合った様子が、生々しく演じられる。そのなかでグリフィスは加害者に対してまっすぐに顔を向けて、両目を見開いて相手を見つめている。これは、実際に修復的正義の対話が行われたときに、彼女が経験したことだった。

映画の宣伝用の短い動画には「彼女は謝罪を求めなかった。彼女が求めたのは人生を取り戻すことだった」というテロップが入る。グリフィス自身もインタビューで、犯罪の被害者であることの悪影響から解放され、自分の力を取り戻すために、加害者との対話を望んだと語っている。彼女はすべての性暴力被害者が対話を望むわけではないことを強調しながらも、トラウマの癒しとつらい経験に終止符を打つために修復的正義の実践が役に立つことを主張している。加えて、性暴力の場合は、対話に至るまでに入念な準備が必要であることも述べる。例えば彼女にとっては、被害者と加害者が対話の実施場所に時間をずらして到着し、どこからどんなふうにやって来たのかを、お互いに見ないで済むようにすることが重要だった。また部屋のレイアウトについても話し合い、加害者との間に机を起き、真向かいに座ることで彼を直接見つめたかったと語っている。つまり、グリフィスが加害者を前にして堂々と目を逸らさずに対話することができたのは、こうした小さな実践的な準備が、ファシリテーターによって積み重ねられた結果だとも言える。観念的な赦しや和解といった言葉とは裏腹に、修復的正義の実践は細かな物理的な条件の設定が重要なのである。

知識を得ることは、ポケットに入るカードを増やすこと

私は大学院では、こうした修復的正義の実践例を精査することを中心に研究を進めた。被害者として心に抱えていた対話への疑念は、だんだんと「対話を望む被害者のための選択肢が必要だ」という客観的な見解に移行していった。むしろ、それぞれの被害者が対話について葛藤を抱えるときに、しっかりと寄り添える人が必要だと思うようになったのだ。そして、より安全に加害者との対話ができるような、修復的正義のプログラムの価値を認めた。私が被害者だと知った人にこう聞かれることがある。
「あなた自身は加害者と対話をしたいですか?」
私は「もう、対話したいと思う時期は過ぎてしまいました」と答える。あんなにトラウマの痛みにのたうちまわり、死すら考えていたのに、今は性暴力の被害の記憶も遠ざかりつつある。また、いわゆる「泣き寝入り」をして加害者を野放しにしたことに対する悔いもない。もちろん、暴力による心の傷が完全に癒えたわけではない。私は死ぬまであの苦しみを忘れないだろうし、一生、引きずって生きていくだろう。でも、もう彼に対する怒りも憎しみもない。私は加害者を赦したと言ってもいいのだろう。私は、対話ではない方法でその地点に至った。

並ぶ女性たち
2015年ごろウズベキスタンにて撮影。男性の多くはロシアへ出稼ぎへ行っているため、田舎の町は女性の比率が高い。

それでも、あの対話を切望したときに私のそばで支えてくれる人がいたら、という気持ちは強く残っている。加害者に「なぜ、私にあんなことをしたの?」と尋ねたい私を肯定し、対話する方法を一緒に考えてくれる人がいたら、どんなによかっただろう。そして今もあのときの私と同じように葛藤している人がいるのではないかと想像する。だから私は修復的正義の研究を続けるし、対話の意義を問い続ける。

そうは言っても、私は実践者ではないから具体的に対話を手助けすることはできない。だから代わりに私が得て来た知識を文章にして公開する。私は知識を得ることは、ポケットに入っているカードを増やすことだと考えている。読者のあなたが、もし、なにかの被害に苦しんでいる渦中の人に出会ったとき、「そういえば対話がどうこうという話を読んだことがあるな」と思い出してくれればいい。私は「対話すべき」とも、「対話すべきではない」とも結論づけない。ただ、対話という道が私たちにはあることだけを伝えたいと思っている。

『当事者は嘘をつく』書影
『当事者は嘘をつく』小松原織香(筑摩書房 2022年)