小松原織香

小松原織香

1969年ごろ撮影。雪が残るニューヨークのセントラルパーク。

(写真:佐藤秀明

私たちに残された「対話」という道

心身に大きな傷を負ったときの修復方法に「対話」という手段があることを小松原織香氏は過去2回の連載で示してきた。今回は修復的正義がもたらす効用を紹介しつつ、小松原氏自身の経験を踏まえてこの研究を続けている意味について述べてもらう。

Updated by Orika Komatsubara on February, 18, 2022, 8:50 am JST

尋ねる相手は、加害者しかいない

「なぜ、私にあんなことをしたの?」
被害者から加害者に向けられる問い。これが、私の研究の出発点にあった。私は19歳のときに性暴力の被害に遭った。その後、自助グループで仲間たちと出会い、回復の道を歩んできた。そのなかで、加害者に対して自分に暴力をふるった理由を聞きたいと考える被害者と出会ってきた。のちに、これが「なぜ、私が? (Why me ?)」という、世界中の被害者たちが抱く疑問だと知った。私は個人の問題としてではなく、学問的な探求として「対話を望む被害者」のニーズを調査したいと考え、大学院に進学した。そして、性暴力被害者と加害者の対話の可能性を探るために修復的正義の研究を始めた。

従来の刑事司法制度が「加害者の処罰」に焦点を当てるのに対して、修復的正義は「被害者と加害者の関係」に焦点を当てる。修復的正義の実践では、被害者と加害者の対話のための多種多様なプログラムが用意されている。近年は欧州を中心に、性暴力事例に特化した対話のプログラムが発展しており、持続的なサービスの提供を目指して制度化が進められている。修復的正義では、性暴力被害者の安全を守るために細心の注意が払われ、トレーニングを受けたファシリテーターが対話の仲立ちを行う。対話の前には十分に被害者と加害者の聞き取りが行われ、対話後もフォローアップがある。これらのプログラムがあれば、被害者が加害者に対して、直接、「なぜ、あんなことをしたの?」と問うことができるのである。

「私は被害者で、加害者と対話をしたいから、研究者になりました」
そんなふうに、私の人生をまとめることができれば良かった。だが、私の人生はそんなまっすぐな道ではなかった。その経緯については、先月出版された自著『当事者は嘘をつく』(ちくま書房 2022年)で詳しく書いている。私は内面に矛盾や迷いを抱え、劣等感と闘い、周囲の研究者や支援者に「当事者であるとバレませんように」と怯えながら研究を進めてきた。「対話をすれば被害者は回復する」「修復的正義のプログラムがあれば、社会がよくなる」などと思えたことはほとんどない。私自身、被害後、加害者には二度と関わりたくなかった。一生、縁を切って、そんな人は存在しなかったごとく暮らしたかった。でも、「なぜ、私にあんなことをしたの?」と尋ねる相手は、加害者しかいない。自分の気持ちを伝えて謝罪を要求する相手も、赦しを与える相手も加害者しかいない。「あなたを赦さない」と宣告する相手すら、加害者しかいないのである。だから、ときに被害者は対話を求める。たとえ、加害者からまともな返答がないと思っている場合でも、加害者がすでに死んでいる場合でも、話す相手はその人しかいない。私も実際に加害者と対話をした経験があるが、相手からはろくな反応はなく、心の平穏は得られなかった。最初から被害に遭わず、加害者と対話しない人生であれば、どんなに良かっただろう。私は、被害者が暴力を受けた後に対話を望まざるを得なくなることは、不条理なことだと思っている。でも、対話しか道がないから、そちらに進むしかない。私は、対話の力など信じていないのに、対話の可能性をしつこく研究している。