福島真人

福島真人

パキスタンのランディコータルにて撮影。派手なトラックに文字通り人を山程乗せて走る。路線バスではない。どこをどう走るのかはドライバーが決める。

(写真:佐藤秀明

リスクのある「実験」を社会の中で行うべきか

科学の発展のためには実験が欠かせない。しかしリスクのある実験を社会は受け入れることができるのだろうか。科学技術社会学の研究者であり、『学習の生態学』の著者・福島真人氏がこの視点の重要性を指摘する。

Updated by Masato Fukushima on March, 29, 2022, 8:50 am JST

「科学者の実験」は誤解されている

何か新しいことを試みる場合、少なくとも二つの異なるやり方が思い浮かぶ。一つはその領域についての試みの前例を探して、それを真似ることである。もう一つはいろいろ工夫して自分で試してみることである。学ぶという言葉が「まねぶ」からきているとはよく聞く解説だが、たいていの義務教育の内容はまず既にあることを習得することで、またビジネスでは真似たもの勝ちといった本まで出版されている。

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小笠原諸島に残された座礁した輸送船。第二次世界大戦時に激戦地となった小笠原諸島周辺には複数の沈没船が取り残された。1961年の小笠原諸島返還からまもないころに撮影。当時はこのように船体が海面から出ているものが多かったが、現在ではほとんどの座礁船が水没し、帆柱だけが海面から出ている状態になっている。写真に写っている輸送船の周りではたくさんのサメが泳いでいた。

しかし、ことが研究の分野に及ぶとそうはいかない。研究は常に新奇性を求めるたゆまぬ過程のため、理論であれ事実であれ、誰がそれを最初に見いだしたかが評価の大前提となる。その意味では、自分でやってみること、つまり実験という行為が研究の核の一つであることはいうまでもない。

この点に関して興味深い逸話がある。かつてある研究所のバイオ系ラボでその活動を調べていた時に、たまたま机が隣だった分子生物学者に、次のようなことを言われたのである。曰く、「世間の皆さん(私も含むらしい)は科学者がやる実験について、少し誤解している。実験というのは何もフル装備で、すべての条件を完備しておこなうだけのものではない。生物学者なら誰でも経験があるだろうが、他の研究者の講演を聞きにいって、面白そうだと感じたら、ラボに戻ってちょっとやってみる。そうした意味での実験も多くある。教科書に載っていそうな、条件を整えてやる実験というのは、論文を書く直前にやるものなのだ」と。

科学技術社会学(STS)の成果の一つは、科学的実践において、実験という活動がもつ多彩な意味(社会的、文化的側面も含む)を、そのリアルタイムの動態に焦点をあてて考察しようとした点である。実際、歴史的研究では、文献や書物としてその内容が残る理論的な業績に比べて、具体的なモノや組織と関係する実験の姿は、その動態を正確に知るのは難しい面もある。また、実験は単に理論的予測を検証するだけのものといった研究者側の偏見も、実験についての研究がかつてあまり活発でなかった理由の一つかもしれない。

科学は理論構造のみで変化するに非ず

実際、人口に膾炙するパラダイム論というのは、もともと理論物理学をモデルにして組み立てられており、理論上の大きな変化の過程を「科学革命」と呼んでいる。しかし、科学の変化は理論構造の変化によってのみ引き起こされるわけではなく、新たな観測・実験装置が開発されることで劇的に進むことも多い。そしてこの点は、パラダイム論ではうまくとらえられない側面でもある。近年の日本がらみのノーベル賞は、タンパク質イオン化の技術や、タンパク質の活動をリアルタイムで観察可能にした発光タンパク質の応用など、観測技術の大革新にかかわるものも少なくないのである。

それゆえSTSでは、実験の実態調査から始まり、それがより広い社会的文脈でどのような意味を持つのか、という点に長く関心を寄せてきた。その際、実験という概念を、普通我々が想像するような条件が厳密にコントロールされたもののみならず、より一般的な試行錯誤全体という枠の中で考える傾向もある。実際フランス語では、実験と「経験」は同じ語なのである。前述した分子生物学者の発言は、まさに科学現場の実験もこうした可塑性/多様性を意味するという点で、大変興味深い話である。

失敗にめげないための「周辺的参加」

実は、より日常的な学習の現場でも、この実験にまつわるさまざまな問題が形を変えて姿をあらわすと感じたのは、大分前に流行した「状況的学習論」という分野の議論を再検討していた時である。この議論は、リアルな状況における学習の問題を、実践共同体とそれへの参加という社会人類学的視点から定式化したものだが、もともとは、さまざまな現場での学習のあり方についてのフィールド調査を基に議論を組み立てている。そのアイデア源の一つが、アフリカの伝統的な仕立屋の調査である。技能がおぼつかない新人がこうした仕立ての作業に参加すると、当然失敗が続き、布が台無しになることも少なくない。だがそこで研究者が見いだしたのは、こうしたぼろ布も再利用できるような、伝統的な仕組みがあるという点である。つまり新人たちの失敗を見越して、彼らが失敗にめげず、技能向上のための試行錯誤ができるようなやり方がとられていたのである。研究者たちはそれを理論化して「周辺的参加」と呼んだが、それは技能のおぼつかない新人たちが、安全に試行錯誤を繰り返しつつ目標の技能を獲得する、という議論だったのである。

実際、新人は未来への希望であると同時に、深刻なリスクの原因にもなりうる。先日大学病院で簡単な手術を受けたが、通常のベテランなら30分で終わるところがなかなか終わらず、ひやひやした。こうした研修医たちの未熟さも、医学の進歩のためには不可避の過程である。とはいえ、これがより難度の高い手術であればそうも言っていられない面もある。別に医療現場に限らず、こうした難度の高い分野において新人をどう育てるかという問題は、幅広い領域に存在するのである。

プロジェクトの規模が拡大するにつれ、新人が経験を積む機会が減る

新人の教育をめぐる似たような「学習問題」が科学の他の分野、例えば宇宙科学のような領域でも顕在化しているというのを耳にする機会があった。現在、宇宙科学領域の研究規模は拡大し、特に海外ではそれに関係した予算もかつてない規模に拡大している。例えばNASAが先日打ち上げたジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡などは、生涯予算が1兆円を超えている。日本での最大規模の計画は、戦略的中型と呼ばれるが、こうした国際的動向に対応するため、プロジェクトの規模は少しずつ拡大している。とはいえ財政危機のご時世、予算規模全体を劇的に増やすことなどかなわない。それゆえ、プロジェクトの規模が拡大するにつれ、ロケット打ち上げの回数は従来に比べて段々と減ってきているという。

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1980年代撮影。煙を吐く釧路の製紙工場。手前は釧路川。

ここで明らかになってきたのは、打ち上げ回数の減少に伴う副作用として、新人がこうしたプロジェクトを経験できる回数そのものも減少傾向にあるという点である。かつては頻繁にロケット打ち上げがあり、新人はなんだかんだいってもどこかのプロジェクトに参加して実際の経験を積む機会が存在した。しかし現状では、新人が実際のプロジェクトを経験するチャンスそのものが減少し、長期的には人材育成に大きな影響が出ると懸念されている。そこで近年注目されているのが、小回りの聞く超小型衛星を学生に造らせて、それを通じて実際のプロジェクト経験を踏ませるという新たな試みである。ロケット本体も、ロケットに乗せる衛星や観測装置も巨大化、複雑化する傾向があるが、その衛星そのものを超小型化することで、学生の現場経験のチャンスを増やそうというのである。

この話は、まさに現場での実験=学習可能性が、さまざまな条件によって左右され、場合によっては人材育成過程に深刻な影響を与えかねない、という現実を示すよい例である。STSでは、科学分野における研究スタイルや組織の形式の差を「認識的文化」(epistemic culture)と呼ぶことがあるが、先程の分子生物学者の発言は、生物学という、比較的小回りがきく認識的文化をもつ分野での話である。しかし、これが巨大装置を必要とするいわゆるビッグ・サイエンス系だと、話が大分違ってくる。実際、高エネルギー物理学等で、実証よりも理論が断トツに進展し、実証が追いつかないという指摘があるが、その裏には、まさに装置が巨大化しすぎて、実験する機会が非常に限られてきたと指摘する書物すらある。更に現状の装置を超えたレベルのそれを誰がいつ建設できるのか、不確定性は高い。前述した宇宙科学も、こうした巨大化と実験機会の減少による学習機会の減少というのが深刻な問題になっているのだ。

失敗させないのではなく、カバーの方法を確保しておくこと

では、他の領域ではこの問題はどうであろうか。先程あげた医療現場などは常に失敗のリスクに晒されているが、世間の目がますます厳しくなっているのは、医療過誤に対する法的な処罰の厳格化という傾向からも明らかである。医療社会学の古典にBoys in Whiteというタイトルの民族誌的研究があるが、その出版50周年を記念した書評エッセーを読むと、ここで描かれている50年前の医学界での医療過誤への態度は、今からみると全く牧歌的だという指摘もある。この厳格化は、現場での学習機会へも大きな影響を与えているはずである。

拙著『学習の生態学』の文庫版に熊谷晋一郎さんが寄せてくれた解説「周縁者が参加できる組織の条件」にも、現場での失敗のリスクに身構える研修医の姿が生き生きと描かれている。熊谷氏は近年障害者の当事者研究を提唱している小児科医であるが、もともと脳性まひの障害があり、医療的処置については他の研修生に比べて多く困難を感じる場面があっただろうと思われる。特に小児相手では、その難しさも尚更であろう。彼のエッセーを読むと、こうした困難を前にして、上級医の「おれが責任をとるから自由にやってみろ」という励ましの言葉がその研修の大きな支えになったという点が生き生きと記されている。

「実験」という言葉を実験科学の厳密さから離れてできるだけ広く解釈し、学習に必須の試行錯誤の過程、と再定義すると、そうした実験過程には、それを阻害しかねないさまざまな社会的、文化的、物質的な制約があることが分かる。そうした諸制約に対して、いかにして実験を可能とする社会的空間を確保するかが、各現場での喫緊の課題なのである。筆者が「学習の実験的領域」と呼ぶこうした空間において、ここでいう広義の実験は、失敗のさまざまなコストに対して脆弱な面がある。これらコストには、経済面のものもあれば、一般的な社会的性質を持つものもある。そのいずれにせよ、どう失敗のコストをカバーし、どうやって実験を可能にする空間を確保するかは、多様な分野で(社会)実験が語られる現代においては、必須の観点なのである。

先に紹介したように、実験は手間隙かかるから、実験よりも模倣がいい、という主張があっても驚かない。実際、学習のかなりの部分は模倣から成り立っているというのも事実である。しかし、多くの分野では我々は未知の領域に突入しており、自らやってみなければ解決しない分野も増えつつある。実験をベースにした学習を推進するには、それを可能にする空間がどのように可能になるのか、横断的に研究するという視座が必要になってくるのである。

参考文献
学習の生態学―リスク、実験、高信頼性』福島真人(ちくま学芸文庫文庫 2022年)
数学に魅せられて、科学を見失う―物理学と「美しさ」の罠』ザビーネ・ホッセンフェルダー 著、吉田三知世 訳(みすず書房 2021年)
『状況に埋め込まれた学習―正統的周辺参加』ジーン・レイヴ、エティエンヌ・ウェンガー 著、佐伯胖 訳(産業図書 1993年)
コピーキャット―模倣者こそがイノベーションを起こす』オーデッド・シェンカー 著、井上達彦 監訳、遠藤真美 訳(東洋経済新報社 2013年)
超小型衛星による宇宙開発への挑戦」中須賀真一
Boys in White: Student Culture in Medical School Howard Saul Becker(University of Chicago Press 1961年)
Epistemic Cultures: How the Sciences Make Knowledge  Karin Knorr Cetina(Harvard University Press 1999年)

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『学習の生態学』(ちくま学芸文庫 2022年)