田原総一朗

田原総一朗

ジャーナリスト・田原総一朗が戦争とメディアを語る。

(写真:竹田茂

日本の戦争、大島渚の反骨

あらゆるものがDX化していく社会において、メディアの役割もまた変革が求められている。日本のメディア界で長年活躍してきた田原総一朗は今、何を思うのか。メディアの激動の時代を振り返りながら語るシリーズ第2回。

Updated by Soichiro Tahara on April, 5, 2022, 8:50 am JST

大島新に流れる反骨精神

今回は映画の話から始める。
『君はなぜ総理大臣になれないのか』、なかなか挑戦的なタイトルである。
現在、立憲民主党政調会長を務める小川淳也代議士を追ったドキュメンタリーだ。
政治は突き詰めれば選挙。そこで勝つか負けるか、ですべてが決まる。小川代議士は選挙に弱い。選挙区ではずっと自民党の候補に負けてきた。それでも熱く政治を語る、語り続ける。

そんな一人の若き政治家(当時は)を17年も追い続けた。この映画には続編がある。昨年末公開され、ロングランで上映されている『香川1区』。2021年10月の総選挙に至るまで、その結末までを撮った半年間の記録だ。小川代議士は勝った。映画のラスト近く、TVの選挙速報開始と同時に香川1区当確のテロップが流れる、歓喜の叫びに包まれる選挙事務所。深々と頭を下げ続ける小川代議士。政治のリアルがよく描かれた映画だ。この2作のドキュメンタリーを撮ったのが大島新。大島渚の息子である。父と子。二人を知る僕は、どうしてもこの二人に脈々と流れる反骨を思ってしまう。

切腹の練習をさせられた大島渚が許せないもの

父・大島渚さんは、僕より二つ上、学年は三つ上になる。
僕は大島渚監督の映画をずっと観ている。
『青春残酷物語』『日本の夜と霧』『愛のコリーダ』、そして『戦場のメリークリスマス』。大島監督は京大を卒業し、松竹に入った。しかし、60年安保を描いた『日本の夜と霧』が公開後すぐ上映中止となり、松竹を去る。その後、フリーとなり数々の話題作を撮り続けた。僕が「朝生(朝まで生テレビ!)」を始めようとした時、大島さんはフリーで活躍をし始めた頃だった。朝生は開始早々からタブーに次々と挑戦した。「昭和天皇論」や「被差別部落論」「原発論」「暴力団論」など、激論を展開した。そして、そのほとんどは大島さんが言いだしたものだった。大島さんは、司会の私がいささかでもひるみ、はぐらかすような姿勢を見せると、「バカヤロー」「逃げるな」と怒鳴った。その迫力、その覚悟が桁違いだった。

国際通り
沖縄返還直後の那覇市国際通り(写真:佐藤秀明)

大島さんは終戦が中学1年。僕は、学制が6・3・3制になった「新制中学(現在の中学校)」の第1期生で僕たちの世代以降は、国家権力の矛盾を突くとき、論理的に説明をしようとするが、大島さんたち「旧制」世代は憤りをそのまま表現する。だから迫力がぜんぜん違う。
終戦の年、沖縄が占領され、いよいよ米軍が本土に上陸すると言われていた。大島さんたちは学校で切腹の練習をさせられた。降伏などもってのほか、全員切腹しろと。僕にも強烈な終戦直後の印象がある。その年、2学期になり占領軍が入ってきて10月になると学校の先生や大人たちの言うことが180度変わった。じつはあの戦争はやってはならない、全く間違いの戦争だった。正しいのは米英。もう絶対に戦争をしない、平和のために頑張る。1学期までは国民の英雄として熱狂的に支持されていた人が、2学期になったら逮捕される。ラジオも新聞も、こういう人間は逮捕されて当然である。いかに悪いかと。その典型が東條英機だった。大島さんたちの世代にとって国やマスメディアは、憎しみの対象でしかない。切腹しろと言った同じ人間が米英に追従、ひれ伏している。もう偉い人を疑うだけじゃ済まない。マスメディアや国は糾弾しなきゃいけない、国家なんて認めるわけにいかない。だから大島さんの映画を見ると、日の丸が黒、完全に国家否定である。国民の強い抑止力がなければ、国家権力はいくらでもエスカレートする。そのことを大島さんは体験として知っていた。

天皇の戦争責任を真面目に問うてみたかった

1988年の秋、昭和天皇が危篤になった。翌年1月に崩御されたが、昭和天皇が危篤になった時は皆「自粛ムード」になり、商店のネオンサインを消したり、ちょうど今のコロナ禍みたいに、「自粛ムード」が高まった。その最中、僕はテレビ朝日の編成局長に「今こそ天皇の戦争責任を真面目にやろう」と言った。昭和天皇にはあきらかに戦争責任がある。じつは終戦の年の9月、昭和天皇がマッカーサーと会談した時に、昭和天皇は「戦争の全責任は私にある。だから、いかようにも処分してほしい」と言った。マッカーサー元帥は、その言葉にほれた。彼が一番恐れたことは、敗戦で政府に対する国民の不信感が高まって、下手をすると共産党が政権を取るのではないかということだった。米国としては、これだけは避けたい。昭和天皇の言葉を聞き、昭和天皇を信頼・信用し、天皇と組んで戦後日本を復興させよう、絶対に共産党内閣、左翼内閣はつくらせないと考えた。連合国の中でも、ソ連やオーストラリアは、天皇を戦争裁判にかけるべきだと主張していた。もし占領軍より上位となる極東委員会がつくられたら、天皇を戦争裁判にかけるかどうかが問題になって、やっぱりかけることになっただろう。そうなれば、天皇はおそらく処刑される。マッカーサーは天皇を裁判にかけることには反対で、極東委員会がつくられる前、1946年に日本国憲法をつくった。その憲法でマッカーサーは天皇を「象徴」という地位にすえた。それまで天皇は全権がある元首だった。それが天皇は政治に全く関わらない「象徴」とした。日本国憲法の一番の問題は天皇象徴。天皇を象徴化することで、極東委員会が天皇に対してあれこれ言えない状況をつくった。

大島渚、野坂昭如、小田実とともにプロデューサーを騙して放送

天皇の戦争責任については、朝生で同じ1988年の秋にやった。最初、日下雄一という番組のプロデューサーがこれを編成局長に見せた時には、「バカヤロー」と怒られた。天皇はタブーだったからだ。日下プロデューサーの偉いところは、「バカヤロー」と言われても、1週間後にまた行く。それを3回繰り返して、3回とも「バカヤロー」と。それで4回目に僕も同行して、小田さんに「じつは、テーマを変える。『オリンピックと日本人』にしたい」と。というのはその年にソウルでオリンピックがあったから。それで小田さんは、「それはいい!それならやろう」と。それで「オリンピックと日本人」というタイトルで載った。

ところが後半、「だけど」と言った。「『朝まで生テレビ!』は生番組だから、始まるのは夜中の1時過ぎ。編成局長はその時間もちろん寝てますよね。終わるのは朝の5時前で、その時間もまだ寝てますよね。だから、本番でたとえテーマが差し替わっても、編成局長は気がつかない。勝手にすり替える。そうなると、編成局長にはたぶん責任はないと思う」と。小田さんは「ばかやろう。うるさい」と。そういう話し合いを4回やった。4回目にはたぶん、編成局長は騙されることを承知でOKした。それで、当日の新聞広告は、「オリンピックと日本人」になった(1988年9月30日放送「昭和63年秋 オリンピックと日本人」)。最初はもちろんオリンピック選手を出して、始めて30分以上たった後に、あらかじめ用意をしておいた天皇の戦争責任について語るパネリストをスタジオに招き、「今日はこういうことをやる日じゃない。やっぱり昭和天皇の戦争責任について、真っ向から撮りたい。こういうことが出来るのは、この番組しかない」と。日下プロデューサーも「ぜひやりたい」と。それでその場で出演者を入れ替え、ここで大島渚、野坂昭如、小田実に登場してもらい、天皇の戦争責任ということで論争を始めた。ところが、それまで天皇を論じるのはタブーで、新聞でもテレビでも全くやったことがない。だからなかなか踏み込めない。さらに30分位経った。とうとう日下プロデューサーが番組中に出てきて、「あなたたちがやってるのは、まるで皇居の周囲マラソンじゃないか。周囲をまわってるだけで、入っていかない。あなたたちがやると言ったんだから、中に入りなさいよ」と。それで、だんだんと中に入って行った。僕は本番中に、「もし右翼で文句があるなら出てこい、番組に出すから」と言ったが、誰も出てこなかった。この回は非常に視聴率が高かった。それで、月曜日に編成局長のところに日下プロデューサーと一緒に「騙してすまなかった」と言いに行ったら、編成局長は「田原さん、悪いけど大みそかにもう1回やって」と。視聴率がよかったからだ。その時以来、「朝まで生テレビ!」はタブーに挑戦している。

南太平洋
南太平洋のソロモン諸島付近。かつて日本軍と連合軍との戦闘が起きた海(写真:佐藤秀明)

大島渚は怖いけれども、心強い兄貴だった。
兄貴は2013年1月15日に世を去られた。もう10年近くが経つ。
戦争を真正面から受け止め、自らの体験、信念に生涯誠実だった。
僕も命のあるかぎり、日本の戦争について語り続けようと思う。