小松原織香

小松原織香

「ハウルの動く城」(2004)より。

(写真:スタジオジブリ / StudioGhibli

美少女以外のヒロインは可能か? 宮崎駿の答えを読み解く

長きにわたり、物語の主人公には見目麗しい人物が選ばれてきた。ことヒロインに関しては「美少女」が選ばれることが多く、ジェンダーの非対称性を表していた。しかしながら、宮崎駿は2004年の時点でそれに対するある答えを用意したようだ。ジェンダーに関する研究を続ける小松原織香氏が読み解いていく。

Updated by Orika Komatsubara on September, 5, 2022, 5:00 am JST

若くて可愛いだけのヒロインにはうんざり

映画「ハウルの動く城」(2004)で、宮崎駿は「美少女以外のヒロインは可能か?」という問題に正面から取り組んだ。この作品では、ヨーロッパ風のファンタジー世界を舞台に、国家の戦争に駆り出される魔法使いたちの物語が描かれる。主人公は、呪いによって90歳のおばあさんに姿を変えられたソフィー。従来の宮崎の作品のヒロインは美少女が定番であったが、今回は成熟した高齢女性がスクリーンの中でイキイキと動き出す。スタジオジブリ内の打ち合わせで、ある女性スタッフが「従来の若くて可愛いだけのヒロインにはうんざり。最後まで老婆のままでいい」という意見が出たことが、このヒロイン像に影響を与えている(叶精二『宮崎駿全書』フィルムアート社、2006年)。

宮崎駿全書』叶精二(フィルムアート社 2006年)

プロデューサーの鈴木敏夫によれば、宮崎は製作初期には「本格的な恋愛映画」を目指していた(鈴木敏夫『天才の思考 高橋勲と宮崎駿』、文春新書、2019年)。高齢女性の恋愛をアニメーション作品で描くという難題に挑戦していると言えるだろう。

ところが、実際に作品を観てみると、いわく言い難い。映画の公開後には批判も頻出し、主人公の女の子が可愛くない、ストーリーがわかりにくい、宮崎の作品のパターンの焼き直しである、脚本にほころびがある等の酷評が出た(叶、前掲書、2006年)。批評家の杉田俊介は、この作品は失敗作であると言い切っている(杉田俊介『宮崎駿論 神々と子どもたちの物語』NHKブックス、2014年)。たしかに「ハウルの動く城」はこれまでの宮崎作品の単純明快なエンターテイメント路線とは一線を画し、まるで詩のような映像構成になっている。つまり、作品理解を観客の感性に委ねているのだ(叶、前掲書、2006年)。よく言えば芸術的で、悪く言えばわかりにくい。そもそも、主人公のソフィーは呪いによって90歳の老婆になったあと、なぜか容姿が若返ったり、年取ったりする。もちろん、魔法の力だと言えばそれまでだが、ハウルとのラブロマンスの場面は、若返った容姿であることが多く、ジェンダーの視点から見れば、結局は美男美女の恋物語と言えなくもない。しかし、そうは切り捨てられない魅力がこの作品にはある。今回は二点に絞り、その魅力を描き出してみたい。

老婆になることを肯定的に捉えたソフィー

第一に、ソフィーが老婆になることに対する肯定的な態度である。18歳の女の子が、魔女の呪いの力でおばあさんになってしまえば、きっと深く落ち込むのだろうと多くの視聴者は予想する。世の中では若い女性は美しく、年を取れば醜くなるという価値観が強いからだ。しかし、ソフィーは魔女の呪いで老婆になってしまったのに、なんだか元気だ。自分の節くれだった手を見て驚き、鏡に映るシワだらけの自分の顔に仰天するものの、「本当に私なの?」と言う顔は暗くない。そして、鏡越しに自分に向かって、「大丈夫よ、おばあちゃん。あなた元気そうだし、服も前より似合ってるわ」と話しかける。あっという間に、おばあさんになった自分を受け入れるのだ。そして、「ここにはいられない」とパンとチーズを包み、たった一人で旅に出る。農家のワラを積んだ荷馬車の後ろに腰掛けて揺られている様子は、全く悲壮感がない。まるで新しい冒険に出かけるようだ。

「ハウルの動く城」(2004)より
「ハウルの動く城」(2004)より。

ソフィーにとって、老婆の容姿になることは、それまでの自分からの解放を意味する。呪いにかかる前、彼女は自分の容姿を「美人じゃない」と言い切り、劣等感を抱いていた。まじめな女の子で、父親の跡を継いだ帽子屋を切り盛りしているが、いつも地味な服を着て、仕事に疲れてため息をつく。対照的に妹は楽しそうに酒場で働いており、姉が鬱屈して暮らしていることを案じている。彼女は「おねえちゃん、自分のことは自分で決めなきゃダメよ」と姉を諭す。ソフィーは責任感が強く、真面目で頑張り屋さんだけど、日々の暮らしを積み重ねることで精一杯で、夢を見ることもなければ、将来を考えることもない。きっと親しい友人や恋人がいたこともなかったのだろう。若者らしい青春に背を向けて、淡々と日々を暮らそうとしている。ところが、呪いによって外部から日常生活が破壊されたことで、彼女は新しい世界への一歩を踏み出したのだ。

老婆になったソフィーは、加齢による身体の不自由さを嘆いてはいるものの、精神的には図太くなり、平気で人にぶつかっていくことができるようになる。その勢いで、ハウルの城に潜り込み、勝手に掃除婦を名乗って仕事を始めてしまった。蜘蛛の巣だらけで、虫が這いずり回り、埃だらけでものが積み上げられた部屋。そこを片っ端からきれいにしていく。風呂やトレイを磨き立て、暖炉のすすを払い、汚れたシーツや服を洗濯する。外に洗濯物を干したあと、ソフィーは目の前の風景に心を奪われる。山には灰色の雲がかかり、その隙間から湖の水面に陽光が差し込んでいる。それを眺めながら「不思議ねえ、こんなにおだやかな気持ちになれたの初めて」とつぶやく。彼女は、老婆になって初めて、自分が安心して暮らせる場所を手に入れたのだ。

無垢ではなく、成熟を描いた

第二に、子どもが大人になる「成熟」の捉え方である。多くの宮崎のアニメーション作品の美少女たちの魅力は無垢さにある。少女たちは仲間と出会ったり、恋をしたりするなかで、まっすぐに相手に向き合い、純粋な気持ちをぶつける。同時に、彼女たちは思春期・青年期特有の心理状態にあり、情緒的に脆く傷つきやすい。そうした子どもたちが困難をくぐりぬけて大人になるプロセスの描写が宮崎の作品には頻出する。呪いにかかる前のソフィーも、内向的で鬱々としている。それなのに、甘い言葉を囁くハウルの態度にすっかり気を許してしまい、世慣れておらず危なっかしい。ところが、彼女は呪いによって一瞬で内面も成熟してしまう。おばあさんになったソフィーは、ハウルの一言一句に引きずられない。

「ハウルの動く城」(2004)より。
「ハウルの動く城」(2004)より。

それが最もよく現れているのが、容姿をめぐるソフィーとハウルの喧嘩だ。ソフィーが、風呂場を掃除したせいで、魔法の力が働かなくなり、ハウルの金髪はオレンジ色になってしまう。それにショックを受けたハウルは、ソフィーのせいだと責め立てる。ソフィーは「そんなにひどくないわ」「私はそれはそれできれいだと思うけど」と慰めるが、ハウルは聞く耳を持たず、「もう終わりだ、美しくなかったら生きていたって仕方がない」と叫び出す。そのうえ、絶望のあまり、闇の精霊を呼び出そうとする。ソフィーは、なんとかハウルをなだめようとするが、あまりにも腹が立ってきて、「もう、ハウルなんか好きにすればいい! 私なんか美しかったことなんて一度もないわ!!」と絶叫する。そして「こんなとこ、もうイヤ!」と、土砂降りの雨の中へ飛び出して、大声で泣き喚く。容姿に劣等感を持っているソフィーにすれば、美醜にこだわるハウルの言葉は胸に刺さるのだろう。だが、そのあと、すぐにソフィーは気を取り直す。そして、仲間と協力してハウルを風呂に入れて落ち着かせる。これは大人の態度だ。ハウルの暴言が子どものかんしゃくと同じだと理解している。彼は、そばにいるソフィーのことなど考えもせず、自分のことで精一杯でわめいている。それを受け入れられるのは、ソフィーがおばあさんになり、成熟した大人になっているからだ。

おばあさんになってしまったからこそ「大人になれないハウル」に惹かれていく

さらに、ソフィーは温かいミルクを作って、ベッドで寝ているハウルに持っていき、話を聞いてやる。実はハウルは、荒地の魔女に襲われるのを恐れていた。本人は荒地の魔女に追われている理由を、「面白そうな人だなあと思って僕から近づいたんだ。それで逃げ出した。おそろしい人だった」と、まるで自分がかわいそうであるかのように訴えるが、ソフィーは呆れ顔でため息をつく。彼が良い加減なことをして荒地の魔女を傷つけ、結果として恨まれているのだとすぐに悟ったからだ。王宮に行きたくないとぐずぐず言うハウルに、「戦争には協力しない」と言ってやればいいとソフィーは諭すが、逆にソフィーに王宮に行って欲しいとハウルは言い出す。結局、本当にソフィーが王宮に行くことになってしまった。ソフィーを見送るハウルは、甘い声で「お守り、無事に行って帰れるように」と指輪を渡し、「大丈夫、僕が姿を変えてついていくから」と囁く。一方でソフィーは「絶対上手くいかない、って気がしてきた」と冷めている。老婆であるソフィーの目には、ハウルは女たらしのお調子者としか映らない。

同時に、ソフィーはハウルの子どものような心に惹きつけられていく。王宮に押しかけたソフィーは、彼の師匠であるサリマンが「あの子は悪魔に心を奪われ、私の元を去りました。魔法を自分のためだけに使うようになったのです。あの子はとても危険です。心をなくしたのに、力がありすぎるのです」と告げられる。それに対して、「ハウルに心がないですって? たしかにワガママで臆病で何を考えているかわからないわ。でも、あの人はまっすぐよ、自由に生きたいだけ」と敢然と魔女に立ち向かって言い返す。そして、魔法の使いすぎで弱っていくハウルを案じ、夢の中であなたを愛しているから呪いをときたいのだと伝える。彼女はおばあさんになってしまったからこそ、「子どものままで大人になれないハウル」と恋に落ちてしまう。

ところが、ハウルはソフィーの心情を理解せず、自分なりに大人になるための努力を始める。その象徴が拙速に「家族」を作ろうとすることだ。魔法の力で城を改修し、みんなに部屋を与え、「理想の家」を実現しようとする。そして、子ども時代の思い出である、秘密の花畑にある小屋に、彼女を連れて行く。ソフィーも美しい風景に感動し、容姿も若返っていった。だが、急に不安に襲われる。

「こわい、小屋へ行ったら、ハウルがどこかへ行っちゃうような気がするの。ハウル、ほんとのこと言って。私、ハウルが怪物だって平気よ」
「僕はソフィたちが安心して暮らせるようにしたいんだよ。ここの花をつんでさ、花屋さんをあの店でできないかな。ね、ソフィーならうまくやれるよ」
「そしたら、ハウルは行っちゃうの? 私、ハウルの力になりたいの。私、きれいでもないし、掃除くらいしかできないから」
「ソフィー、ソフィーはきれいだよ」

その言葉でみるみるソフィーは年を取り、おばあさんになって「年寄りのいいとこは、失くすものが少ないことね」とつぶやく。その言葉の真意はわからないが、二人の意識のすれ違いは明白だ。ソフィーが求めたのは、現実に起きている困難にともに立ち向かうことだ。だが、ハウルはソフィーが安全な場所で暮らすための方法だけを考えている。

「弱虫がいいの」

このギャップは、街に敵が攻めてきたときにもっと露わになる。ボロボロになって戦うハウルに、ソフィーは「逃げましょう、戦ってはダメ」と説得しようとする。だが、彼は「なぜ? 僕はもう十分、逃げた。ようやく守らなければならないものができたんだ。君だ」と言い返す。そしてまた戦場に向かってしまう。ソフィーはそれを必死で止めようとし、「あの人は弱虫がいいの」と言う。つまり、彼女はこわいものから逃げ回っているハウルのほうがいいと言うのだ。多くの物語では、男性が家族や恋人を守るために命懸けで戦うことを肯定的に描く。それこそが男性が大人になることだと考える人もいる。ところが、ソフィーは「弱虫がいい」とハウルが子どものままであることを求める。

「ハウルの動く城」(2004)より
「ハウルの動く城」(2004)より。

物語の終盤、アクシデントでハウルが死にかけてしまう。このとき、ソフィーは若返った姿で、子どものように目にいっぱい涙を溜めて「ハウルが死んだらどうしよう?」と叫ぶ。彼女は無力でなにもできず、座り込んでわんわんと泣く。それでも、ハウルの指輪の導きのもと奔走し、ハウルの心臓を取り戻す。ソフィーの手の中にある彼の心臓は子どもの頃のままで、温かく、小鳥のようだった。その心臓を、ハウルの胸に再び入れると彼は蘇った。ソフィーは「ハウル大好き、よかった!」と彼に抱きつく。その様子は子どもっぽくて、18歳の女の子そのものだ。このときのソフィーは、おばあさんではなく若い娘の姿をしているが、中身もすっかり若返ってしまったようだ。

実は、その直前に、カブ頭のカカシがソフィーに思いを告げていた。ところが、彼女は彼の話は全く聞いていない。ハウルのことで頭がいっぱいだからだ。まるで、ハウルがかんしゃくを起こして、ソフィーのことを忘れきっていたのと同じように。ソフィーの呪いは解け、老婆ではなくなってしまった。つまり、この映画では、ソフィーとハウルが成熟して大人になるのではなく、子どもの心を取り戻して終わる。主人公が成熟して大人になるのではなく、大人になってしまった主人公が子どもの心に還るのだ。

キキとソフィー、二人のベクトルは真逆なのか

それでは、「ハウルの動く城」は、前回取り上げた「魔女の宅急便」と真逆の映画なのだろうか。成熟の物語を拒否し、いつまでも子どもの心を持つことを肯定する映画なのだろうか。おそらくそうではない。宮崎は、魔女の宅急便について、こんなふうに語っていた。

ホウキに乗ってネコを連れて空を飛んでるうちは、自由ですよ。人から距離をとっているわけですから。でも、町に住むってことは、つまり修行するってことは、もっとあからさまな自分になって、つまりキキで言えばホウキも持たず、ネコも連れずに一人で町を歩けてね、人と話ができる。そういうふうになれるかどうかなんですよ(宮崎駿『出発点』徳間書店、1996年、515ページ)。

出発点』宮崎駿(徳間書店 1996年)

私は前回、この宮崎の言葉を概括し、「宮崎にとっての少女の自立とは、人間関係のなかにある自己を確立することである」と書いた。ここでは、成熟することは他者の力を借りて生きていけるようになることを意味する。その成長過程で主人公の少女・キキに必要なのが「修行」であった。それに対して、ソフィーは呪いの力で修行せずに、成熟した老婆になった。そのことで、自分に閉じこもっていたソフィーは、外の世界と関わり、人間関係を作る一歩を踏み出した。しかしながら、物語の最後にもう一度、彼女の人生は18歳まで巻き戻り、再スタートする。これからソフィーは、ハウルやほかの仲間たちとともに、今度は「修行」を重ねながら成熟していくのだろう。

宮崎が「ハウルの動く城」に沈黙した理由

この物語は二つのメッセージを伝える。一つは、子どもたちに向けた、成熟とは苦役ではなく矮小な自己からの解放だというメッセージである。「大人にならなければならない」のではなく「大人になりたい」と子どもたちに思わせるような、イキイキとした高齢者の姿が描かれている。もう一つは、大人たちに向けた、私たちはいつでも子どもの心を取り戻せるというメッセージである。もちろん、現実世界には魔法の力は働かないので、肉体の年齢が若返ることはない。でも、自由を求めてまっすぐに、好きに生きていくことはできる。年を取るごとに、家族や周りの人間関係は複雑になり、家事、育児や介護などの仕事に対する責任も重くなる。もし、それらを全部放り出して逃げ出して、新しい冒険に出て子どもの頃の心を取り戻せたら……そのとき、きっと肉体は老いていたとしても、表情はイキイキとし、まるで子ども時代のような顔になっているかもしれない。「ハウルの動く城」のファンタジーの世界は、現実では実現不可能な大人の夢を、優しく受け止めてくれる。

宮崎駿は「美少女以外のヒロインは可能か?」という問いに対して、作品を通して「可能だ」と見事に答えてみせた。そのとき、作品は大人の感性に訴える詩情的なアートの志向性を持つことになった。そして、詩的な作品について、創作者が解説するのはナンセンスである。宮崎がこの作品に沈黙するのは正解だ。したがって、「ハウルの動く城」が「よくわからない」という評価を受けるのは、子どもではなく高齢女性をヒロインに据えた時点で不可避であった。

参考文献
宮崎駿全書』叶精二(フィルムアート社 2006年)
『天才の思考 高橋勲と宮崎駿』鈴木敏夫(文春新書 2019年)
宮崎駿論  神々と子どもたちの物語』杉田俊介(NHKブックス 2014年)
出発点』宮崎駿(徳間書店 1996年)