小松原織香

小松原織香

「もののけ姫」(1997)より。

(写真:スタジオジブリ / StudioGhibli

宮崎駿が描いてきた「環境と人間」

環境問題における修復的正義のフレームワークを構築する研究を進めている、小松原織香氏。環境問題を扱った芸術作品の筆頭ともいえる「もののけ姫」をどのように読み解くのだろうか。今回は「風の谷のナウシカ」と比較しながらみていく。

Updated by Orika Komatsubara on March, 20, 2023, 5:00 am JST

環境問題のコアに直面する「もののけ姫」

宮崎駿監督作品「もののけ姫」(1997)は、環境問題の教材として最適なアニメーション作品である。中世の日本を舞台にして、人々が製鉄技術を手に入れ、産業を発展させていく。それと引き換えに、山や森が破壊され、獣たちや神々、精霊たちが殺されていく。宮崎は、自然と人間の対立を描きながらも、どちらかを悪役として描かない。差別や貧困に苦しむ人々が、技術を手にすることによって、自由や「人間らしさ」を取り戻し、楽しく暮らしていることを生き生きと描き出す。他方、森の住人たちの美しさや叡智、神秘の力を幻想的に描き出す。特に、森の中で小さな精霊のコダマたちが人間に寄り添い、道案内をしてくれる風景は観ていて微笑ましい。観客は主人公・アシタカに自己投影し、どちらの側にも「大事にしたいもの」を見出し、人間と自然(もののけ)のどちらかを選ばなければならない葛藤を共有するだろう。まさに、環境問題のコアとなる「人間か、自然か」また「共生は可能か」の問いに直面する。

宮崎は初期から一貫して、自然を賛美する作品を製作してきた。特に、漫画版「風の谷のナウシカ」(1982-1994)では、「もののけ姫」とほぼ同型の自然と人間の対立構造が物語の中心に置かれている。主人公のナウシカは、小さな集落のリーダーとして人々の暮らしを守る立場にありながら、自然を愛し、人間が産業発展によって世界を破滅に追いやることに心を痛めている。彼女もアシタカと同様に、自然と人間のどちらを守るべきなのかについて葛藤し、苦しむことになる。

ところが「風の谷のナウシカ」と「もののけ姫」を比較すると、いくつかのキーとなるモチーフが全く異なる描き方をされていることに気づく。以下で、両作品を比較し、自然と人間の対立についての物語の展開を確認しよう。

「怒れる自然」の描き方

第一に、物語に登場する「怒れる自然」を象徴する生き物たちである。「風の谷のナウシカ」の冒頭の場面では、人間が怒り狂う蟲たちに襲われている。蟲とはこの世界に生まれた巨大な甲殻類で、時々人々を攻撃してくる。その理由は、人間が蟲たちの世界の侵入し、ときに傷つけたり兵器として利用したりするからである。ナウシカは例外的な存在で、蟲笛によって蟲たちとコミュニケーションをとり、友達になることもできる。ナウシカは物語の後半で、蟲たちは生態系の営みのなかで、人間が汚染した土地や水を浄化するために自分たちの命を投げ捨てていることを知る。そして人間の罪を背負って犠牲になる優しさに胸を打たれることになる。「風の谷のナウシカ」では蟲たちは個別の場面では人間に怒りを向けることはあっても、最終的には人間の総体に対しては、恨みも呪いもしない。

「もののけ姫」(1997)より。

それに対して、「もののけ姫」の冒頭の場面では、人間の村を猪神(ナゴの守)が襲おうとする。猪神は人間に鉄砲で撃たれ、体の中を鉄の銃弾で引き裂かれた。その苦しみと痛みのなか、人間への怒りに駆られ、タタリ神となった。タタリ神となると、うねうねと蠢く触手の塊となり、触れたものに呪いをかけて殺してしまう。アシタカはタタリ神の呪いを受けて、自らに迫り来る死を自覚しながら、住んでいた村を追われて救いを求めて旅に出る。つまり、アシタカは人間の業を背負わされた主人公なのである。彼は、人間と自然の共生する道を求めてもののけたちに話しかけようとするが、全て拒絶される。物語の後半では、人間ともののけの対立は深まり、全面戦争が始まる。人間は策謀をめぐらせてもののけたちを虐殺する。その人間の暴力性に対し、猪神の長老のような存在であった乙事主も、深い傷を負い怒りに駆られてタタリ神になった。「もののけ姫」では、猪神は人間をゆるすことはないし、恨み苦しんで死んでいく。この点で、「風の谷のナウシカ」の蟲たちと、「もののけ姫」の猪神は全く違う。

かつて対立していた姫も成熟していく「風の谷のナウシカ」

第二に、それぞれの物語に登場する「二人の姫」である。
「風の谷のナウシカ」では、ナウシカは集落のリーダーの娘であり、「姫」と呼ばれている。彼女はその集落で生まれ育ち、老婆や母親たち、小さな娘たちから慕われ、仲良く暮らしてきた。彼女は集落の女性たちを守る責任を強く感じている。また、物語の後半では彼女の後を継ぐであろう幼い女の子も登場し、集落で女性たちの絆が世代を超えて引き継がれていくことを予感させている。他方、彼女は実は幼少期に母に愛されなかったというトラウマ的な記憶を抱えている。一見、地域コミュニティの強い世代を超えた女性の繋がりのなかにいるように見えながら、母―娘関係は希薄である。また、ナウシカはコミュニティでは嫌悪されている蟲たちに深い愛情を持ち、子ども時代から友だちになろうとしてきた。彼女は人間よりも、蟲たちのほうが美しく賢いと感じているようにも見える。彼女は内的に分裂しているのだ。

「風の谷のナウシカ」(1984)より。

それに対して、もうひとりの姫・クシャナは大国の後継として生まれ、兄弟間での抗争に巻き込まれながらも、権力奪取を目指してきた女性である。彼女は幼少期に母を殺されて以降、自らの生命を守るためには戦わねばならないことを自覚した。いつも策謀をめぐらせる男性の軍人たちに取り囲まれており、戦争に勝つためには自然を犠牲にすることもいとわない。ナウシカとは対照的な姫である。それにもかかわらず、物語の後半では、クシャナはナウシカに感化されていく。作品の最後は、彼女が戦争で荒廃した国の再建に取り組みながらも、正式な王位にはつかず、王制を廃止したことが語られ、締め括られた。「風の谷のナウシカ」では、クシャナがナウシカとの関係のなかで、一人の政治家として成熟したとも解釈できる。

エボシ御前とサンの間にあるのは単純な対立構造

「もののけ姫」に登場するサンは、人間に捨てられ山犬・モロに育てられた。モロを「母さん」と呼び、種を超えた母―娘関係は濃厚である。彼女はほかの人間との関係を持たず、もののけたちのなかで生まれ育った。彼女は自然側を代表する姫である。それに対し、製鉄を行うタタラ場を統括する、エボシ御前という女性が登場する。彼女の出自は不明だが、売られた娘たちを買って、引き取っている。娘たちはタタラ場で仕事を与えられて大活躍をし、銃器も手にして敵とも戦う。エボシ御前は娘たちに慕われており、コミュニティで信頼されるリーダーである。彼女は人間側を代表する姫であり、もののけとの戦いでも最前線で指揮をとっている。「もののけ姫」では、人間と自然の対立関係が、エボシ御前とサンによって代替して描かれている。彼女たちの間にコミュニケーションは生じず、ただ殺し合うだけである。

「もののけ姫」(1997)より。

両者を橋渡しする役割を担おうとするのがアシタカだが、彼は旅人であり、人間のコミュニティから離脱している。また、もののけたちとの親密な関係があるわけではない。彼は両者の間を伝書鳩のように行ったり来たりしているが、語るべき言葉も守るべき存在も持たない。サンとアシタカの間にはおぼろげな恋模様が描かれるが、最後にサンは「アシタカは好きだ、でも人間は許せない」と断言する。つまり、サンにとって、二人の関係は個人同士のものであり、人間側と自然側の対立とは関係がない。「風の谷のナウシカ」が、ナウシカの内的分裂やクシャナの葛藤など複雑な心模様を描いているのに対し、「もののけ姫」はエボシ御前とサンの単純な対立構造だけを描く。

内部分裂をするナウシカ、人間側に付きつつも自然側との間を行き来するアシタカ

第三に、「自然と人間の共生」のビジョンである。「風の谷のナウシカ」には、自然との共生を目指して生活をしている「森の人」が登場する。かれらはできる限り自然の資源を使わずに、持続可能な生活を標榜し、志を同じくする人々の間に小さなコミュニティを作っている。ナウシカはそこに参加することを誘われるが断った。彼女は「森の人」たちの理念には共鳴し、そこで、自然を守りながら暮らしていくことに心惹かれているように見える。だが生まれ育った風の谷に住む人々たちへの想いは断ちがたく、かれらのリーダーとして戦場へ戻ることを選ぶしかなかった。ここでも彼女は人間と自然との関係のなかで引き裂かれている。

「もののけ姫」(1997)より。

「もののけ姫」では、アシタカは人間と自然との共生について、山犬・モロと直接的に対話を試みている。彼は「人と森が争わずに進む道はないのか」と問いかける。だが、モロからは、もう何もかも遅いという返答が返ってくる。彼は、サンのことをどうするのかと食い下がる。彼女は人間であり、森やもののけたちが犠牲になることに巻き込まれるべきではないと主張する。両者はこんなふうに言い争う。

アシタカ「あの子を解き放て! あの子は人間だぞ!!」
モロ「黙れ、小僧! お前にあの娘の不幸が癒せるのか。森を侵した人間が我が牙を逃れるために投げてよこした赤子がサンだ。人間にもなれず、山犬にもなりきれん、あわれで醜い、かわいい我が娘だ。お前にサンを救えるか!」
アシタカ「わからぬ。だが、ともに生きることはできる!」
モロ「わっはっはっは、どうやって生きるのだ? サンとともに人間と戦うというのか」
アシタカ「違う、それでは憎しみを増やすだけだ」
モロ「小僧、もうお前にできることはなにもない。お前はじきにアザに食い殺される身だ。夜明けとともにここを立ち去れ」

アシタカの理想主義的な「自然と人間の共生」を訴える主張は、モロによって現実味のない話として一蹴されてしまう。実際に、この後、もののけたちと人間の全面戦争のなかで、山や森は破壊され、獣たちや神々は殺されていく。モロも命を落とすことになった。その後、アシタカはサンに対して「サンは森で、私はタタラ場で暮らそう。ともに生きよう。会いに行くよ。」と告げる。彼にとって、人間側と自然側の間を行き来することが「ともに生きる」ことなのである。どちらかを選ばなければならないという葛藤はない。「風の谷のナウシカ」で繰り返し描かれる、ナウシカの内的分裂の状態とは無縁なのだ。

この作品を丁寧に見ていくと、アシタカは自然と人間を仲立ちしているように振る舞うが、実際には徹頭徹尾、人間の側についている。彼の頭のなかにあるのは、山や森の神々や獣たちではなく、自然側についているサンである。そこで滅ぼされていったものへの親密さはほとんどない。もちろん、彼は森のなかで暮らす精霊・コダマの存在に気づき、大切に思うような感性は持っている。だが、神々や精霊の命と引き換えに、製鉄業によって人々が豊かになっていくことを受け入れている。これは、まさに人間が歩んできた歴史であり、ナウシカがその犠牲への罪悪感で苦しんだのに対し、アシタカは犠牲を背に人々が前に進むことを肯定するのだ。

アンビバレントな巨神兵、破壊と再生の神であるディダラボッチ

第四に、「人間を超越する存在」の描き方である。「風の谷のナウシカ」には、大量破壊兵器である「巨神兵」が登場する。巨神兵は、人間が造り出した神であり、世界を破滅させるほどの攻撃力を持っている。人間の行いに対する裁定を下す存在でもある。ところが、巨神兵はナウシカを母親のように慕い、愛情を求める。そのことによって、両者の間には親密な関係が生まれていく。最後には、巨神兵はナウシカの命によって、人間を救うために犠牲になり、死んでしまう。巨神兵は人間を圧倒するほど巨大で大きな力を持ちながら、脆弱な精神を持つアンビバレントな存在である。

それに対して、「もののけ姫」に登場する巨大な存在はディダラボッチ(シシ神)である。昼間は大きな角を持ち、三つに分かれたひづめを持った、黄金の鹿のような見かけをしている。森の一番奥に住んでおり、出てくると池の水面をすたすたと歩く。夜になると月の光を浴びて、半分闇に透けたような巨大な姿に返信する。そして、山を歩き回り、森を育て、自然界を守っている。この神は生命を司っており、目の前にいる存在が衰えていくのであれば命を吸い取って死を与え、生きるべき命を持っているならば傷や病を癒す。人間とは隔絶した不思議な存在として描かれている。

「もののけ姫」(1997)より。

ディダラボッチ(シシ神)が興味深いのは、生命が「生」と「死」の二面から成り立つという、生命観に基づいている点である。物語のなかで、サンは負傷したアシタカを、この神の前に捧げる。そして、彼の傷を神が癒したことにより、生きるべき存在であると判断している。この者の命を救うのか奪うのかについては、人間ももののけも神の意志がわからない。ふらりとやってきた神の前に身を投げ出すだけである。破壊と再生の両役割を担う神なのだ。

物語の後半で、ディダラボッチ(シシ神)は、人間によって首を落とされてしまう。そうすると、体がぶよぶよした液体に変わり、首を取り返そうと、全ての命を破壊しながら森中に広がっていく。人間ももののけも命を失い、緑は全て枯れ果てた。タタラ場にも、ぶよぶよした液体が迫ってきて、人間たちが逃げ惑う。サンとアシタカは、首を人間から取り返し、神に向かって掲げて叫ぶ。
「シシ神よ、首をお返しする、しずまりたまえ」
すると、ディダラボッチ(シシ神)は、首を取り戻し、美しく光るが、そのまま大地に倒れてしまう。そこから、一気に自然が再生していく。大地には草木が芽吹き、人間の怪我や病は癒え、アシタカの呪いも解けた。人間の造ったタタラ場は破壊されたが、娘たちはエボシ御前とともに再建を明るく誓う。神の死と引き換えに、世界が救われたようにも見える。

「風の谷のナウシカ」も「もののけ姫」も、制作された時期はそれほど変わらない

この点で、「風の谷のナウシカ」と「もののけ姫」は決定的に違う。「風の谷のナウシカ」は、神なき後の世界である。人間は、神を造ろうとしたが、死と破壊しかできない「巨神兵」を生み出した。対して「もののけ姫」は、神は殺されていくにもかかわらず、生命を与えて去っていく。そして、その意図は誰にもわからないのである。

「もののけ姫」(1997)より。

「もののけ姫」は、漫画版「風の谷のナウシカ」が完結して約3年後に発表された。おそらく、アイデアを出したり、製作に関わったりする時期はそんなに変わらないはずである。しかしながら、以上の四点を見ていくと、両作品での宮崎の環境思想の描かれ方は大きく異なっている。この違いは、アニメーション映画と長編漫画によって生まれているのだろうか。一人で掘り下げた内容をコツコツと描き溜めた「風の谷のナウシカ」は、宮崎の思想性をダイレクトに反映しており、複雑で探求的な物語が描かれる。対して、大量の予算を投じて、多くのスタッフを巻き込みながらエンターテイメント作品として発表された「もののけ姫」は、製作過程も全く違うものだろう。次回は、ドキュメンタリー作品「『もののけ姫』はこうして生まれた」を元に、いかにしてこの作品が製作されたのかを見ていきたい。