中根佑子

中根佑子

©︎Yuko Nakane

(写真:中根佑子

遊ぶ梅

商業カメラマンとして活躍しながら、アート作品の制作も続けている写真家・中根佑子氏。今回は「梅」をテーマにした作品を発表してもらった。

Updated by Yuko Nakane on April, 4, 2023, 5:00 am JST

私は梅が好きだ。

東京では桜が雨と風で早くも散り始めている中、梅の話をしようと思う。

私は梅がすべての植物の中で、いや、作品の被写体としても一番好きで、ライフワークとしてかれこれ10年ほど梅を撮影している。

初めて梅の魅力に気付いたのは、高校生のとき。
ある日、通学路にあった小さな梅林の横を自転車で通り過ぎたときだった。
一様に並ぶ梅の木の、背の低さがまず目を引いた。見ると、ドシっとした太く短い幹から、突然、シュッシュッと細く長い枝が天に向かって突き出している。その太い幹と細い枝のビジュアルの違いの激しさに、「そんなことってあるんだ」と驚いた。

当時、ギャップというものが大好きだった私に、それはとてもよく刺さった(ちなみにギャップがあるという点で他に好きなものはペンギンで、陸での不自由そうな歩みから一転、水中に入った途端弾丸のようなスピードで泳ぐ様子に手を叩いて笑い喜んでいた学生時代だった)。

そのときの梅は、これまで自分が見てきた他のどの植物とも違う姿形をしていた。確かに梅という植物を知ってはいたが、「それまで梅を知らなかった」と言っていい、そのくらいハッとした経験だった。それは自転車で通り過ぎる一瞬だったが、そのときの驚きをいまでも覚えている。

次に梅と重要な出会いをしたのは、尾形光琳の『紅白梅図屏風』だ。

私は常々、尾形光琳と歌川広重によって自分の人生は変わったと思っているのだが、高校生の頃にテレビで初めて尾形光琳の『紅白梅図屏風』を見て、「なんだこれは」と度肝を抜かれた。

金地のど真ん中に、大きな黒い川。
その中に描かれる装飾的な水流表現。
川の両脇に立つ対の紅白梅。
これまで見てきた何物とも違う、その斬新さ。黒い川、水流、梅の枝の伸びと花の彩るバランス、構成、すべてがかっこよく、ガツンと衝撃を受けた。シンプルなのに強く迫ってきて、とにかく感動した。

私はこれをきっかけに日本美術に強く興味を持つようになり、作品にも、人生にも大きな影響を受けた。

そうして本格的に梅を写真に撮るようになったのは、無事フォトグラファーとして独立し、作品づくりを始めた25歳の頃。
水戸の偕楽園で出会った、あまりにも自由で面白い梅の姿に、自分の理想を見たからだった。

とにかく枝ぶりが自由自在。上へ伸びるかと思いきや急激に下に折れ曲がり、右にいくかと思いきや左へ転換、カクカクしているかと思いきや柔らかなカーブを描く。直線曲線、太く細く、あらゆる対比を含みながら、縦横無尽に入り乱れる。ギャップ好きにはたまらなかった。

枝の伸び方には何かしらの理由があるのだろうが、どうにも無秩序に見える。まるでルールを無視しているようで、「いいんだ、それで」と可笑しくなった。

私にはこのとき梅が、何の干渉も受けずに、生きて、自由に遊んでいるように見えた。

「実は梅だけが生きているパラレル世界がここには存在して、梅同士がそこで遊んでいる。」

ファインダー越しに、そんな世界が私には見えた。また、そんな世界があっても良いのではないか。そんな世界が存在する自由度が、この世にあったら面白いのではないか。そう思うくらいに、心がふわあと軽くなり、想像力が解放された。そして、奔放な梅の枝を前に、真っ直ぐ立とうとしている自分の不自由さに気が付いた。

強く、軽やか。
縦横無尽、自由自在。
ときに不快なくらいにごちゃごちゃで。
心がざわつく生命力。

梅の姿は、私の理想の在り方だった。

それから、毎年梅を撮り続けている。
冷たい空気の中、梅は美しく冴えている。どんどん好きなところが増えていく。
一年に一度、あのときの梅を、あのときの気持ちを思い出す。


(余談だが、使用した4枚の写真は、青山のスパイラルホールで開催された『SICF15』というアートイベントで発表した作品である。 そのとき、以前仕事でお世話になった、邦楽の家元が見に来てくださったのだが、「写真を見たときに尾形光琳を思い出したんですよ」と言ってくださって、本当に嬉しかった。)