仲俣暁生

仲俣暁生

(写真:Kirill Neiezhmakov / shutterstock

橋本治の恵み──そして「知性」は再び浮上する

文筆家・仲俣暁生氏が橋本治の著作から未来のヒントを読み解いていく連載最終回。橋本治が浮かび上がらせようとした「近代」とは「知性」とは何だったのか、それを私たちは今どのように受け取るべきなのかを考えていく。

Updated by Akio Nakamata on June, 29, 2023, 5:00 am JST

別れてしまった「近代」という友

「三島由紀夫」とはなにものだったのか』を2001年に書き上げた後、橋本治は「ふっと」小林秀雄のことを思ったという。それまで橋本は、小林の著作を『本居宣長』しか読んだことがなかった。1985年にすべて書き下ろしからなる『デビッド100コラム』という本を出した際、橋本は当時のベストセラーだったこの本についてのコラムを書いた。ちなみに「コラム」とは、橋本が『浮上せよと活字は言う』で論じた若者向け雑誌「POPEYE」によって広まった「活字離れ」以後を象徴する文章のスタイルである。

そんな橋本は2002年に新潮社の小林秀雄全集編集室の求めに応じ、同全集「別巻Ⅱ」に収められた「宣長と桜と小林秀雄──あるいは「いい人」について」という文章を書いた。この文章のなかで橋本は、自分は日本の知的社会に「いやなもの」を感じていた、と述べている。「知的社会」とは日本におけるもっとも近代化した部分を代表するものだから、橋本はようするに日本の「近代」に「いやなもの」を感じていたのである。

小林秀雄はまさに、そんな日本で近代的な「批評」を開始した人物だ。なぜ橋本は小林の『本居宣長』を読もうとしたのだろうか。その機会が訪れたのは1980年代の半ば、1985年であり、小林はその2年前に80歳で没している。橋本は次のようにその経緯を述べる。

「三十代の半ばになるまで、私は小林秀雄の著作を読んだことがなかった。自分に関わりのある人とも思っていなかった。別に小林秀雄を毛嫌いしていたわけでもなく、「文芸批評」というものの存在理由を理解していなかっただけである。そんな私が、なぜ三十代の半ばになって『本居宣長』に手を出したのかと言えば、そこに『本居宣長』という話題になった作品があって、私が、自分とは直接に関係のない「日本の知的状況」というものをちょっとだけ知りたいと思ったからである。」(「宣長と桜と小林秀雄──あるいは「いい人」について」)

初めて小林秀雄の著作を(というより、当時話題の本だった『本居宣長』を)読んだ橋本は、おそらくそこに日本の「知的社会」に特有の「いやなもの」があると想像していたはずだ。ところが意に反して、この本を読んだ橋本はそこから「小林秀雄という人はいい人なんだ」という実感を得る。「日本の知識社会の中枢に“いい人”がいるということは、とてもいいことだ」と感じ、「些か救われた気がした」のだった。

この文章を橋本が書いた2002年、奇しくも『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』は新潮社が新設した小林秀雄賞の第一回受賞作となる(同時受賞は斎藤美奈子の『文章読本さん江』)。自分とは全く関係がなかったはずの「小林秀雄がどんどん近づいてくる」と感じた橋本は、2007年に『小林秀雄の恵み』という著作を書き下ろしで発表した。この本で検討されるのもやはり『本居宣長』なのだが、冒頭で橋本は三島由紀夫の本を書いたあとで「小林を思った」理由を、「『友』という連想」からだったと述べている。この一文はきわめて重い意味をもっている。

「(三島は──引用者)自分の死をぼんやりと思って、遠い以前に死んで行った友のへの挨拶を記し、それから『豊穣の海』を書き始めたのではないかと、私には思われた。それが後に残って、私もまた、「遠い昔にいなくなってしまった友」を思った。具体的な誰かではない。ずっと昔に別れてしまった「近代」という友、あるいは、「友」の中にいた「近代」を思った。だから、日本の近代を代表するような人物の名が自然と思い出された。」(「第一章 『本居宣長』の難解」)

小林秀雄は三島由紀夫と同様、日本の「近代的知性」を代表する存在だった。そして小林は、三島より20歳以上も年長でありながら、1980年代の初めまで現役の「批評家」として存在していた。橋本が三島に感じた限界、そしてそれを乗り越えることができなかった同世代の「友」の話は、東大全共闘と三島由紀夫の「討論」について論じた回ですでにした。橋本治という「作家」はこのときに「友」を喪失した怒りによって実質的に生まれた。そんな橋本にとって、三島よりはるかに年長の小林が「いい人」であると思えたことが大いなる「恵み」であったことはよく理解できる。