仲俣暁生

仲俣暁生

(写真:Kirill Neiezhmakov / shutterstock

橋本治の恵み──そして「知性」は再び浮上する

文筆家・仲俣暁生氏が橋本治の著作から未来のヒントを読み解いていく連載最終回。橋本治が浮かび上がらせようとした「近代」とは「知性」とは何だったのか、それを私たちは今どのように受け取るべきなのかを考えていく。

Updated by Akio Nakamata on June, 29, 2023, 5:00 am JST

小林秀雄の敗北と「転回」

『小林秀雄の恵み』という本で橋本が述べることは、二つの筋道に分かれる。橋本自身が「悪路を行くバス」になぞらえるほど、小林の『本居宣長』はわかりにくい本である。それを論じる橋本の言葉も同じように「悪路」を行くのだが、筋道を手放すことはない。

その一つ目は、小林が太平洋戦争開戦2年目の1942年(昭和17年)に経験した(と橋本が考える)一つの転回点をめぐる洞察である。『本居宣長』という著作のみを通して小林秀雄を──正確には、小林秀雄を必要とした「近代」の日本人を──を論じようとしたこの本は、あやうく「本居宣長論」になりかける。それをギリギリのところで阻むのは、この時期に書かれ1946年に小林が創元社から刊行した『無常といふ事』に収められた「当麻」「徒然草」「無常といふ事」「西行」「実朝」といった一連の文章を読み解く部分である。橋本治はこれらを、小林が「当麻」を書くきっかけとなったある出来事──橋本はそれを「敗北」とさえ呼ぶ──からの回復、つまり「リハビリテーション」の課程として位置づけるのだ。

戦時下のこの時期、小林は能楽堂で世阿弥の「当麻」を初めて見て、「突然能舞台の上に出現した『美』に襲撃された」と橋本は言う。その経験が小林に与えた衝撃は、あまりにも有名な次の言葉によってよく知られている。

「美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない。彼の「花」の観念の曖昧さに就いて頭を悩ます現代の美学者の方が、化かされているに過ぎない。肉体の動きに則って観念の動きを修正するがいい、前者の動きは後者の動きより遙かに微妙で深淵だから、彼はそう言っているのだ。」(小林秀雄「当麻」)

自身を「前近代人」であると規定する橋本にとって、同じく「前近代人」である本居宣長にさしたる「謎」はない。橋本にとって本居宣長は、「もののあはれ」が身体感覚としてわかっていた人、つまり五感の人である。しかし三島由紀夫と同様、徹底した「近代人」すなわち「理知の人」である小林は「もののあはれ」が実感的に分からない──いや、分からなかった。だからこその「敗北」である。

しかし橋本は、『本居宣長』にはるかに先立つ時期に書かれた「当麻」と、その後に続く「徒然草」「無常といふ事」「西行」「実朝」といった文章を読み、小林はこれらの文章を書きながら変わっていったと考える。まさに天動説から地動説への「コペルニクス的転回」が、このとき小林に起きたのだった。この連載の前回に書いた──そして、またしても更新が遅れた理由でもある──「橋本治のなかで、近代と前近代、そして近代と現代とはいったいどのような位相になっていたのか」という問題にもっとも明快な答えを与えてくれるのは、橋本が小林を論じるこの部分である。

本居宣長が象徴する「前近代」の知性と小林秀雄が象徴する「近代」の知性を統合することは、ここで小林自身のいう「肉体の動きに則って観念の動きを修正する」と同義である(橋本治はこの主題を2002年に出た『人はなぜ美しいがわかるのか』でも展開している)。この認識論的な転回があればこそ、小林は三島が陥った「天動説」の罠から自由になることができた。だからこそ、橋本治は『本居宣長』を書く晩年の小林秀雄を「いい人」だと感じることができたのだった。