小松原織香

小松原織香

(写真:日帰り温泉研究所 / photoAC

研究の効率を求めた瞬間に見失うものがある。哲学研究者による水俣病の運動史の紐解き方

仮説を立て、データを集めて検証するのが、研究の基本的なプロセスだ。しかし環境哲学の観点から水俣病の運動史を紐解いている小松原織香氏は、それでは「見失うものがある」と感じている。独自の調査を重ね、緻密な論考を発表しつづけている小松原氏の調査方法を紹介する。

Updated by Orika Komatsubara on May, 19, 2023, 5:00 am JST

公害により地域のコミュニティが引き裂かれた水俣

こんな質問を受けることがある。

「水俣でなにをしているんですか?」

水俣地域の研究を始めて8年になる。1956年に水俣病患者が公式確認されて以来、60年以上が経過した。水俣病は、チッソ(チッソ株式会社、現在のJNC)がメチル水銀を含む工場排水を海に流したことが原因で発生した。汚染された魚介類を食べた人びとは水俣病を発症し、苦しんだ。いまも治療法はなく、多くの人たちが後遺症に苦しんでいる。

水俣病は人々の健康を害しただけではない。地域の人々を分断した。地域の住民は、水俣病のことをよく知らないままに、被害を受けた人々を差別した。今でも、差別発言の並ぶビラやハガキが資料として残っている。

「補償金が欲しくて、症状もないのに嘘を言っているのだ」「ニセ患者だ」
そんな言葉が飛び交った。そのなかで、水俣病の症状があるのに、家族や親戚、近所の人々の目を気にして、水俣病患者の認定を受けることを控えたり、補償の申請を諦めたりした人たちがいる。1968年にチッソの工場からの汚水の排出が止められ、浄化のための工事が行われ、目に見える範囲では美しい海が取り戻された一方で、地域のコミュニティは引き裂かれ、人々の心には深い傷が残った。のどかな春の海を眺めていると、水俣病はもう終わったかのような錯覚に陥るが、この地域の目に見えないところで苦しみ続ける人々がいる。私はそんな水俣に惹かれて通うようになり、調査を続けている。

統計も客観的中立データもとらない「調査」

「調査する」といえども、私は人文系の研究者であり、専門は哲学である。社会学者だと思われることもあるが、社会学の学会には所属していないし、社会調査士の資格も持っていない。数字が苦手なので、統計調査に手を出すことはない。さりとて、インタビュー等による質的調査も、いわゆるランダムサンプリングによる、客観中立的なデータをとることもない。あえていうと、私の調査は「フィールドワーク」の大きな枠組みに入るだろう。過去の運動団体の機関誌やビラ、水俣病患者や活動家の手記、手紙などの一次文献を調査対象にしている。そのなかに残された、人々の思想やアイデアに興味がある。有名哲学者の文献より、地域で暮らしている人々の言葉のほうが、私にとってはずっと魅力的だ。

水俣では、いつも水俣病センター相思社に滞在している。ここには、資料のデータベースがあり、膨大な過去の記録が残っている。それに加えて、未整理の資料が段ボール箱に詰まっている。ほこりを被って、黄ばんだ紙が雑然と積み上がっているのだ。それが私には宝の山に見える。自分の研究テーマと関連しそうな箱を出してもらい、一枚一枚、紙を広げて中身を確認していく。酸化した紙をさわっていると指先が荒れていく。それでも、「何が出てくるのか」とウキウキして一番楽しい時間だ。もちろん、箱を全部開けてもめぼしい資料が出てこないこともある。そんなときは「どうしたものかな」と途方にくれる。やってみないとわからないのが、フィールドワークの醍醐味だ。

見たいものだけを見ないようにするために、研究のフレームワークは一旦棚上げする

いま、私は1970年代に川本輝夫らが牽引した「自主交渉」について調査をしている。川本は、父を水俣病で亡くし、自らも障害を負った。地域の人々で水俣病の症状がある人たちを訪ね、認定を求める運動への参加を促した。1971年10月11日からは、認定患者への補償を求めてチッソとの交渉を自分たちで始める。これが自主交渉である。11月1日からは、補償に応じないチッソの水俣工場前で座り込みをした。さらに、12月8日からは、東京に行って社長との会うことを求めてチッソ本社前で座り込みをした。川本らは、1973年7月9日に、チッソとの補償協定が結ばれるまで、社長との対話を求め続けた。この自主交渉のプロセスを描きたいというのが、私の研究の目標である。

実は、自主交渉についての資料はすでに何冊も公刊されている。まず、川本自身の自主交渉時代の日記が掲載された川本輝夫『水俣病誌』(世織書房、2006年)が挙げられる。また、岡本達明『水俣病の民衆史』第四巻(日本評論社、2015年)は、網羅的に資料にあたり、貴重な証言も含めながら、自主交渉の実態を明らかにしようと試みる。さらに、自主交渉に深く関わった石牟礼道子は、自らの目を通して見た人々の様子や内面世界を文学作品として表現し、『苦海浄土』第三部「天の魚」(筑摩書房、1974年)として発表した。これらを踏まえて、私は自主交渉についての新しい発見をしなければならない。

「どの角度から、自主交渉を研究するつもりなの?」

水俣で会う人々に聞かれる。私は「えーと、まだ決まってません」というと、相手は目を丸くする。おそらく、多くの研究者は現地に入る前に、調査のデザインを考え、どの角度からテーマに切り込むのかを考える。私も、研究のフレームワークを考えていないわけではない。ただ、現地に入るときには、それをいったん棚にあげる。「見たいものだけ見るのはよくない」と思うからだ。とりあえず、ゼロベースで順番に資料にあたっていく。そこで自分のフレームワークと付合していけばラッキーだし、うまくいかなければ研究は頓挫する。

当時の雰囲気が少しでもわかればありがたい

自主交渉の研究はうまくいかないほうだ。2023年2月に1ヶ月にわたり本格的な資料調査を開始したが、箱を開けども開けども、コレという資料は出てこない。当たり前だが、社会運動の最中の活動家は忙しく、日記をつける暇がない。機密事項が多くて機関紙に詳細は載っていない。学生が作ったビラは勇ましいアジテーションが並んでいるが、どこかで見たような文言の繰り返しで、オリジナリティがなかった。興味深い手記は見つけたが、自主交渉には関係なかった。未整理の箱を開けるので、テーマと関係のない資料もたくさん入っているのだ。テーマ自体、変えたほうがいいかもしれないとも思う。

「もう、ダメかも……」

相思社には縁側がある。調査が嫌になると、そこで寝転んでみかんを食べる。そうすると、庭の木々の間を、何羽も鳥があっちこっちと飛び回る。スマホで検索すると、ヒヨドリとムクドリで、見分け方もわかった。完全に現実逃避だ。

そうこうしていると、相思社のお茶の時間になる。10時半と15時におやつが出るのだ。コーヒーを飲みながら、雑談していると楽しいし、水俣の話をしていると何かやっている気がする。ご近所の方もやってきたので、自己紹介をしてお話しする。それで2時間が経過する。もう暗くなってしまったので、調査も早めに切り上げて休もうと思う。

「もし、お時間あれば○○○の手伝いをしてもらえませんか?」

職員さんからのお声かけに、二つ返事で応じる。先の見えない資料調査に比べれば、お手伝いの方が楽しいので飛んでいく。私は運転もできなければ、これという特技もないので、イベントの会場設営や受付などを手伝う。そこには、自主交渉にも参加していたような、水俣地域の活動家もやってくる。私は童顔なのでよく学生だと間違えられるが、へらへらしてご挨拶だけする。私にはそこでさりげなく話を聞き出すようなテクニックはない。

「あの話、聞きたいな。あ、でも、やめとこう。忙しそうだし……」

理由をつけて、何も質問しないまま、その場を立ち去る。職員さんが気を遣って「○○さんにお話を聞かなくていいんですか」と私に訊いてくれるが、「いいよ、いいよ。また機会があったらで」と断る。でも、何も収穫がないわけではない。あちこちで交わされる立ち話や、ちょっとした雑談からこぼれてくる昔の話はちゃんと聞いている。もちろん、合意をとったインタビューではないので、論文には書けないが、当時の雰囲気が少しでもわかればありがたい。

私は地域を研究する面白さは、異物として現地に飛び込むことにあると思っている。異物は地域の人たちに不審げな目で見られ、ウロウロし、周りに気を遣って疲れ果てる。私はフィールドワークでは、観察者として調査するのではなく、地域の人たちの観察対象となっているのだ。その地に住む人たちは当たり前にわかることが、私にはわからない。目に見えない地域のルールがあり、口に出してはいけないことがある。さらに、実はそこの人たちはヨソの人に話したいことがあったりする。

効率を求めた瞬間に見失うものが水俣にある

結局、2月の調査はほとんど何も見つからずに終わり、4月に再調査を1ヶ月ほどした。少しだけ進展はあったが、まだコレというものは見つかっていない。だから困る。

「水俣でなにをしているんですか?」

なにをしているのだろうか。そう思いながら、日々は過ぎていくのだ。私はもう覚悟を決めて、自主交渉の研究は、半年や一年ではできないかもしれないと思い始めている。1971年10月11日から1973年7月9日までの、たった1年9ヶ月。この間に、運動に関わった人たちの内部で渦巻く感情はあまりにも濃密で、簡単に外からやってきた私に触れるものではない、ということは、調査のなかでわかってきた。だからこそ、研究を進めたいし、論文を書きたいと思っている。ここで起きたことは、人間の営みのなかで生じる普遍的な「なにか」がある、という予感がする。

私の調査は、高度に発展した現代のアカデミズムにおける科学的調査とは相容れない。仮説を実証するわけでもなく、ランダムサンプリングをするわけでもない。ただ、現地で聴こえてくる声に耳を傾け、埋もれた資料を紐解く。
「こうすればもっと効率的に調査ができますよ」
アドバイスをもらうこともある。でも、効率を求めた瞬間に見失うものが水俣にある。そう思っているからこそ、60年以上も経った公害事件の〈その後〉を私は追い続ける。

本文中に登場した書籍一覧
『水俣病誌』川本輝夫(世織書房 2006年)
水俣病の民衆史』第四巻 岡本達明(日本評論社 2015年)
『苦海浄土』第三部「天の魚」 石牟礼道子(筑摩書房 1974年)