中根佑子

中根佑子

                                                    

(写真:中根佑子

反逆も亦た奇なり

理想的な天気に恵まれなかったとき、写真家は何を思うのか。商業カメラマンとして活躍しながらアート作品の制作も続けている写真家・中根佑子氏は、それもまた良しと考えているようである。思い描いていたプランとは違う現実が訪れたとき、ぜひこの作品集を観てほしい。

Updated by Yuko Nakane on May, 2, 2023, 5:00 am JST

写真をやるようになって良かったことの一つは、どんな天気も嫌ではなくなったことだ。
なぜなら、どんな天気のときも、その天気だからこそ撮れる写真があるからだ。

晴れた日には、青い空や明るい光で撮れ、逆光を生かすこともできる。
くもりの日には、白い空や柔らかい光の中で、あえてフラットな画が作れる。
雨の日だって、濡れて色鮮やかな植物や地面の反射が、こちらに向かってきらめいている。

確かに、仕事が絡むと、撮りたい画が撮れなかったり、機材が雨で濡れるリスクがあったりして困ることもある。だが、プライベートで撮るのであれば、予想外の天気でも「それならそれで」と思える。 
こう思えるのは、私が非演出のスナップが好きだということもあるが、ある2つのものに影響を受けている。

(雨中の青い池)

1つは、漢詩である。
北宋の詩人、蘇軾の詩の中に「雨も亦た奇なり(あめもまたきなり)」というフレーズがある。「雨の日もまた格別だ」という意味で、私の好きな言葉だ。

下記がその詩の全文である。

水光瀲灔として
 (すいこうれんえんとして)
晴れ方に好し
 (はれまさによし)
山色空濛として
 (さんしょくくうもうとして)
雨も亦た奇なり
 (あめもまたきなり)
西湖を把りて
 (せいこをとりて)
西子に比せんと欲れば
 (せいしにひせんとすれば)
淡粧濃抹
 (たんしょうのうまつ)
総て相宜し
 (すべてあいよろし)

(雨中の青い池)

内容としては、西湖という美しい湖があり、それは晴れてこそ美しいが雨もまた格別で、中国四大美人のうちの一人である西子(西施)の化粧に例えるなら、薄化粧でも厚化粧でもどちらも実に結構だ、ということらしい。

私はこのフレーズを知ってから、少し明るさの落ちた寒い雨の日、どんよりとした雰囲気に引きずられそうになるときには、「雨も亦た奇なり」と頭の中で唱えるようになった。
そうすると「雨の日ならではの写真でも撮って、今日を良い日にするか」と気持ちが上向くのだ。

(駅のホーム下の草)
(雲の中のゴンドラ)

2つ目は、辺見庸氏の『反逆する風景』という書籍だ。

「風景が反逆してくる。考えられるありとある意味という意味を無残に裏切る。のべつではないけれども、風景はしばしば、被せられた意味に、お仕着せの服を嫌うみたいに、反逆する」(辺見庸『反逆する風景』)

「これはこういうものだ」という自分の先入観、押し付けの意味を裏切る存在、趣旨とズレる不都合な存在が、目の前の風景として現れることがあるという。

元々は何年も前に誰かの本で紹介されているのを読んだだけだったのだが、「反逆する風景」という強い言葉が頭に残った。
私はその言葉を、「当初は勝手なイメージを抱いていたとしても、被写体と向き合ったときにはそのものの現実の姿をちゃんと見て受け入れろ」という戒めのように感じたのだった。

(雲の中のゴンドラ)

「雨も亦た奇なり」と「反逆する風景」。
これら2つの言葉から、たとえ目の前の風景が自分の期待と異なるものだったとしても、バイアスをかけず、それもまたありのままのそれなのだと受け止め、想定外の趣を楽しんでみようと思うようになった。

今回の写真は、北海道へ旅行したときのもの。明るくカラフルな美瑛や青い池を見に行こうと思ったら雨が降り、雲海を見にトマムに行ったら雲の中に入ってしまったが、それはそれで良いと思えた。そのとき自分の目の前にあるものしか撮れない。それはそのときにしかない。写真はそこが面白い。

(雨降る美瑛の丘)

今回のコラム執筆にあたり『反逆する風景』をちゃんと読んだのだが、面白かった。(どこまでここで書いて良いのかわからないので、詳しくは書籍を読んでほしい。)

筆者は後悔していた。過去に、そのとき確かにいた場違いな存在を、書かずになかったことにしてしまったことを。
なぜ書かなかったのか。
「それは、どう謙虚を装っても権威の臭いの漂う既成の意味世界に、私自身もとらわれているからだ。それがどんなにささいな規模であれ、風景の反逆を描かず、気付かないふりをするのは、つまるところ、書き手が世界に反逆したくないからなのだ。」(同書)

これにはドキリとした。写真をやる者にとっても無関係ではない。写真は世界を切り取るものだからだ。何をどう見せるか。どこからどこまでを入れて、何を入れないか。撮影者は取捨選択する必要がある。
画的に決まらないから排除するのか、テーマにそぐわないから排除するのか、ならばテーマ設定が相応しくないということはないか?
また、「これはこういうテイストにした方が見る人がわかりやすく理解するだろう、共感を得られるだろう」という決めつけが、表現の幅を狭めていやしないか?
色々考えさせられる。

『反逆する風景』を読んだことで、今後、自分が表現したい作品制作に際し、「意味を押しつけるなよ」という風景による反逆にあったときには、きっと私はそれを清々しく思うことができる。

参考文献
心がなごむ漢詩フレーズ108選』渡部英喜 平井徹(亜紀書房 2007年)
『反逆する風景』辺見庸(鉄筆文庫 2014年)(『反逆する風景』(随筆)は1995年に講談社より単行本刊行)