中根佑子

中根佑子

(写真:中根佑子

シャッターを切る、そのとき

基本的にはポジティブに心が動いたときにしかシャッターを切らないという、写真家の中根佑子氏。しかし彼女は、好きでもないカラスの写真を撮る。その理由を、カラスの写真とともに紹介する。

Updated by Yuko Nakane on August, 18, 2023, 5:00 am JST

私は普段、「いいな」「面白いな」と思ったときにシャッターを切っている。
何が、どんな風に、という内容は様々だが、基本的に被写体に対して、心の奥底がほっこりしたときに撮る。

そのことに気が付いたのは、東日本大震災の5ヶ月後、アシスタントの仕事の休みを利用して、宮城県の被災地に赴いたときだった。
沿岸部では建物が消え、それらの瓦礫によってうずたかい山が出来ていた。あまりの存在に衝撃を受け、咄嗟にカメラを構えたものの、シャッターボタンに指を押し込むことができなかった。
そのときに初めて、私は負の気持ちでは写真を撮れないことに気が付いた。私にとって写真は「いいな」と心がポジティブに反応したときに撮るもので、私にはその苦しみの山を「いいな」とは到底思えなかったのだ。

私は意義深さや使命感で撮るタイプではないようだったから、つくづく、人に疎まれてでも撮る報道写真家の覚悟はすごいなと思った。

また、写真の撮影者というものは、しばしば「観光者」や「野次馬」のような、興味本位のお気楽な第三者のように傍から見えることがある。

私は瓦礫の山を目の前に、近くにいた人のシャッター音を聴いたとき、いまこの場で私もシャッター音をカシャカシャと重ね響かせることで、「観光名所に来て写真を撮って楽しんでいる人たち」という存在に自分がなってしまうのではないか、いまこの場では不謹慎になるのではないかと危惧した。それも撮影をためらった理由の一つだった。周りがそう思うというより、自分が自分としてそうなることが嫌だった。

私が当時、撮る行為に対してそういう考えを持ったのには、おそらく二つの要因がある。

一つには、震災後しばらくは「不謹慎」に対して過敏な世間の風潮があって、自分の行為が不謹慎なものかどうか考える思考回路ができていたから。

二つ目は、震災より数年前、私がまだ大学生の頃のこと。友人たちと渋谷のスクランブル交差点あたりで待ち合わせしていたとき、街の写真を撮っていたら、友人の一人に「東京に観光に来た田舎の人に見えるよ」と言われたことがあった。

私はそのときまで、撮影している自分の姿が周りの人にどう見えているかを意識したことがなかったので、その発想に驚いた。別に「東京観光に来た田舎の人」に見えても何の問題もなく、実際私は渋谷にあまり行かないので渋谷観光者そのものだったが、その友人が恥ずかしそうだったから少し申し訳なく思い、カメラを下ろした。

年を重ねたせいなのか、経験を重ねたせいなのか、いまは撮影している自分がどう見えているかなんて気にしていない(撮影の同行者は恥に耐えているのかもしれない。申し訳ない)。

あれから10年以上経って、色々な記憶が薄れ、自分の記憶力に対する信用が落ちてしまったいま、あのとき被災地で自分が何を見たのか、記録として少しは撮っておいてほしかったと、当時の自分に対して思う。
「いま」思えば撮ればよかった。だが「そのとき」に撮ることは難しい。そのときはそのときの自分なのだ。

ここまで色々書いてきたが、シャッターを切るときの動機について、カラスに関してはイレギュラーだ。

カラスの写真を人に見せると、「カラス好きなの?」と聞かれるが、別にカラスが好きなわけではない。というか怖い。攻撃されることへの恐怖だ。ゴミを荒らすのも勘弁してもらいたい。加えてカラスは頭が良いから尚のこと怖い。頭が良い存在は怖い。
子どもの頃から、カラスが通り道にいると、より距離を取るように歩き、「私はあなたに危害を加えませんよ」といった態度で通り過ぎるようにしていた。

しかし、写真をやるようになったある日、「怖いけど、ずっとこのままなのか、こんなに身近にいる鳥に、通り過ぎる度にドキドキするままなのか」と思い、気付かれないようカメラを向けてノーファインダーで撮った。
そこに「いいな」も「面白い」もなく、もちろん意義も使命感も記録的要素もなかった。衝動的で、あえて言うなら、撮ったらどうなるんだろうという興味。

その日をきっかけに、カラスが近くにいたら、刺激しないように撮るようになった。
最初はノーファインダーから。次に、遠くから。少しずつ距離を縮めていった。

さりげなく撮るようにしているが、きっと気付いているんだろうなと思う。

そうして撮っていくと、やっぱり怖いことに変わりはないが、カラスがいると「おっ」と少し嬉しくなるようになった。撮りたくなるのだ。
写真の面白いところをまた発見した気分になる。
撮影することで被写体との関係が変化する。
被写体として向き合うことで、以前のようなただ怖い存在ではなくなった。

「何を考えているんだろうなあ」

「コミカルだなあ」

ピョンピョンと鳥らしく跳ねて歩く様子は可愛らしい。
でも好きではない。怖い。
怖いから面白い。
でももしかしたら少し好きになっているのかもしれない。
いやあ、どうだろう。

写真は、世界と自分を関わらせてくれる。
白黒でない、色々な関わり方を持たせてくれる。
カラスと私の関係は、よくわからない私の気持ちは、また変化していくことだろう。
いまこのときの私とカラス。