8月末に最後のエントリーを公開してから記事の更新が3ヶ月も止まっていた。それには理由がある。今回はまず、その言い訳から書くことにする。
前回述べたとおり、三島由紀夫という作家は、橋本治にとって「近代」を象徴する存在だった。『三島由紀夫とはなにものだったのか』のなかで橋本は、三島の遺作『天人五衰』を論じつつ、日本の近代は「天動説」の時代だったと述べた。三島はそんな「終わりつつある近代」を象徴する存在であり、すでに到来しつつある「その後」の時代には、世界の捉え方は「地動説」であるべきと考えた。
1969年5月に三島由紀夫と対峙した東京大学全共闘の学生たちは橋本の同世代であり、本来ならば「その後の時代」──つ まり「現代」──につながる存在であるはずだった。だが三島と東大全共闘のこのときの対論は、当時の橋本に、自分たちの同世代もまた「天動説」にとらわれている事実を示しただけだった。橋本のいう「地動説」は当時の日本、とりわけ知識人と呼ばれる人々には受け入れられなかったし、おそらく21世紀のいまもなお一般的な認識にはなっていない。
この「再読ノート」では、橋本治が「近代」をどのようなものとして考えていたのかを、彼の主要な著作を参照しつつ、繰り返し検討してきた。『浮上せよと活字は言う』における「活字」、『江戸にフランス革命を!』における「革命」、『宗教なんか怖くない!』における「自分のあたまで考えること」──各著作のモチーフとなるこれらの語句は、いずれも近代社会を成り立たせる基本原理である。
橋本治の思想は、あえていえば一種の反近代主義(保守主義)なのだが、これらの著作における主張をみるかぎり、近代主義の原則的にきわめて忠実である。橋本は、日本の大衆はまだ「近代」に到達していないと考える一方、三島由紀夫に象徴される「近代知性」にも、「天動説」ゆえの限界があることを見据えていた。
このような複雑な「近代観」をもつ橋本治のなかで、近代と前近代、そして近代と現代とはいったいどのような位相になっていたのか。いよいよ、そのことに踏み込まなければ ならない。ようするに、それは「日本の近代とはいったいなんだったのか」という大問題を、橋本の著作を通して位置づけるということだ。この3ヶ月続きを書きあぐねていたのは、この大きな話をどこから語ればいいか、覚悟が定まらなかったからである。
6時間の講演で橋本治が語ったこと
橋本治には、書名に「近代」を含む著作が2つある。1つは、2000年代から2010年代にかけて断続的に書き継がれた、『失われた近代を求めて』と題された近代日本文学論である。そしてもう1つが、1988年に刊行された『ぼくたちの近代史』という講演録である。今回は後者について検討するところから、橋本治の「近代観」を確認していく。というのも、この本で橋本は、すでに明瞭すぎるほど明瞭に自身の考えを述べているからだ。
『ぼくたちの近代史』には、1987年11月に東京・池袋の西武コミュニティ・カレッジで行われた講演の一部が収録されている。ちなみに橋本は1985年にも同所で講演を行っており、その講演録は『恋愛論』として刊行された。どちらの講演も、当時西武コミュニティ・カレッジで働いていた(現在は小説家の)保坂和志が企画した。
では、この二度目の講演では何が語られていたのか。「文庫版のためのデータと あとがき」によれば、それは「昭和が終わった後の橋本治のための、膨大なメモである」。事実、この講演には一般的な意味での「論旨」はない。なにしろ『ぼくたちの近代史』の「文庫版のためのデータとあとがき」によれば、このときの講演は「午後の二時から、間に十五分と一時間の休憩を挟んで、夜の九時まで」、ほぼ6時間も続いたのだった。
ちなみに『ぼくたちの近代史』が刊行された際には、同時にほぼ同じ内容のカセットブックも発売された。こちらのほうが書き起こしをまとめた本にくらべ、橋本の発言の微妙なニュアンスがかなり残っているが、それでも収録時間は100分程度であり、講演の残りがどのようなものだったのか、いまでは知るすべもない。いまわかっているのは、2度の中休みを挟んでの各パートが、第一部が「新人類の曙と保留印の女達の前近代」、第二部が「リーダーはもう来ない」、第三部が「原っぱの論理」と題されていたことだ(第三部のみ、没後に編まれた『「原っぱ」という社会がほしい』にも再録されている)。
第一部は「全共闘とはなんだったのか」という話から始まり、「団塊(=全共闘)世代」より少し下の「高校生ベ平連」(橋本は小説家の村上龍をこの世代の典型的な存在として割り当てている)と、そのさらに20年後に登場する「新人類世代」との類似性を指摘した上で、少女マンガに革命を起こした萩尾望都、山岸凉子、大島弓子らは大学とは関係のないところにいた「全共闘世代の女」であり、その本質は「スカートはいた男の子」だと断ずる。
そのような「大雑把な見取り図」を示しつつ、序盤からこのようにあちこちに逸れていく本書は、まさに「膨大なメモ」としか呼べないものだ。しかし橋本はいくつか重要なことをそのなかで述べている。一つは、本来は「セクト(新左翼の各分派)」の外の「規定されないもの」であったはずの全共闘も、1969年の段階ではそれ自身が「セクト」(=全国全共闘)にならざるを得なくなっていた、という事実の指摘である。ここで重要なのは、その結果のほうだろう。セクトと化した全共闘は、みずからを支える「理論」をつくらなければならなくなった。しかし橋本によれば、全共闘運動とは理論的なものというよりは感性に根ざしていたものであり、その本質を一言でいえば「大人は判ってくれない」(トリュフォー)だっ た。
「で、「大人は判ってくれない」と言ってた彼らは、何を判ってもらいたかったんだろうか、っていうこともあんですよね。で、何を判ってもらいたかったんだろうかっていうと、「”大人は判ってくれない”と言って僕達がドタドタ叫んでいる、そのことを判ってほしい!」っていう風に言ってたから、ある意味でその”目的”は自分自身の中に返ってっちゃうのね。」(新人類の曙と保留印の女達の前近代)
そして当時の大学生は、そこになんらかの「理論」を求めてしまう生真面目な存在でもあった。したがって──、
「理論をつくるんだとしたら、「大人は判ってくれない」ってとこからスタートする理論を作っていかなくちゃいけないんだけど、でも既にその頃の状況は”政治の季節”になっちゃってますからねェ、そういうことは全部政治用語で語らなくっちゃいけないんですよね。」(同前)
この時点で全共闘運動はすでにセクト的なものへと変質しており、「『六法全書』の言葉をつぎはぎして情念というものを描写させる、アングラの時代になっちゃって」いた。この「情念」「アングラ」云々という発言は存外に重要な意味をもつのだが、ここではそれに触れず、もう一つの「重要なこと」に移ろう。
書き上げられなかった「全共闘小説」のモチーフ
それは橋本が早くから構想し、そして結局、書き上げることなく終わった全共闘小説についての発言である。
「前に全共闘の小説書こうと思って書き出して、その全共闘の小説って俺がやるんだから、もちろん主人公は女なのね。桃尻娘になりきれ なかった二十年前の女って、それを書きたいんだよね。その視点を通して男の子達の話を書きたいっていう。」(同前)
このように橋本が述べている「全共闘の小説」は、他の機会には具体的に『少年軍記』という題名さえ明かされたものの、最終的に発表されることはなかった(ただし、のちの『リア家の人々』の砺波静という登場人物に、この主人公の面影がみてとれる)。この「全共闘の小説」の書き出しは、次のようなものだったと橋本は言う。
「私は長い間自分はここにいてもいいのだろうかと思っていた」(中略)
「ずーっと自分はそこにいるくせに、そこにいる間はずっと「自分はここにいてもいいんだろうか?」って、常に居心地の悪さを感じ続けていて、その居心地の悪さを薄める理論がどっかにある筈だ、どっかにある筈だって所々方々巡礼して歩いてるんだけど、「どこにも見つかりませんでした」ってことにはなるんだけど(以下略)」(同前)
おそらく、当時このような「居心地の悪さ」を感じていたのは「全共闘世代の女」だけでなく、橋本自身、あるいは男たちの幾人かも同じだったに違いない。しかし全共闘世代の男たちの多くは、「『六法全書』の言葉をつぎはぎして情念というものを描写させる」ことで、その居心地の悪さをねじ伏せてしまった。
当時のさまざまな「理論」なるものは「漢文で書かれていた」と橋本は言う。おそらくそこからの連想で、橋本の話はいきなり、当時とりかかっていた『枕草子』の現代語訳の話題に移る。橋本の『