仲俣暁生

仲俣暁生

パキスタンを走るデコトラ。元はイギリス軍用車であるベッドフォードだ。

(写真:佐藤秀明

”伝説”なしで「三島由紀夫」を語るには(前篇)

2020年、三島由紀夫没後50周年の特集が多数のメディアで組まれた。約半世紀前の記録が掘り起こされ、その「伝説」は数多の口から語られた。しかしその掘り起こしは一体何を為し得たのだろうか。文筆家の仲俣暁生氏が、三島由紀夫を論じた橋本治の著書を紐解きながら考える。

Updated by Akio Nakamata on August, 16, 2022, 5:00 am JST

56年ぶりに東京で国際オリンピック大会が開催される予定だった2020年は、戦後の日本社会で大きな節目となった1970年から半世紀が経過したという意味でも、大きな節目の年だった。1970年は大阪で日本最初の万国博覧会が行われたこと、日本初のハイジャック事件である「よど号」事件が起きたこと、そして一人の文学者の死によって記憶されている。その「文学者」とは言うまでもなく、市ヶ谷駐屯地に私兵と闖入し自衛隊に決起を呼びかけたが応ぜられず、割腹自殺した三島由紀夫である。

2000年、橋本治は『新潮』十一月臨時増刊(特集「三島由紀夫没後三十年」)に100枚の三島論『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』を発表した。橋本はこのあとにも100枚の三島論を2本書き、それらを大幅に加筆して2002年に『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』という同題の単行本を上梓した。その「あとがき」で橋本は、「三島由紀夫は、その初めから私とは関係がなかった」と書いている。

「三島由紀夫が死んだ年、私は三島由紀夫が卒業したのと同じ大学の学生だった。一九六九年の五月、三島由紀夫がそこにやって来て学生達と討論をしたということを、私は後になって知った。その頃の私は、自分が在籍している大学に対して、一切の関わりを持ちたくなかった。大学でなにが起こっても、関心がなかった。その関心のなさは、私に「一ケ月の安静」を要求するほどの苛烈さで起こった。」

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会津日中線の熱塩駅。1984年撮影。現在は廃線となり、記念館が残っている。

「一ヶ月の安静」が何に由来するのかを、橋本はこの文章では明らかにしていない。しかし、三島由紀夫と自分とは「関係がなかった」と強く否定する文章のなかで、それほどの「安静」を必要とした出来事への「関心のなさ」、その「苛烈さ」の印象は極めて強い。そこで、橋本治と三島の関係についてみていく前に、まずはこの「苛烈さ」がどのようなものであったかをはっきりさせておきたい。それは毎日新聞社が刊行した「シリーズ 20世紀の記憶」の『1968年 グラフィティ バリケードの中の青春』に収められた橋本によるエッセイ、『「とめてくれるなおっ母さん」を描いた男の極私的な1968年』によって知ることができる。

橋本治の名は、1968年11月に行われた東大駒場祭のポスターがきっかけで広く知られるようになった。一浪後、この年の春に東大文科三類に入学した橋本は、歌舞伎研究会とデザイン研究会、美術サークルに入る。デザイン研究会の「主な仕事」は駒場祭のポスターに応募することであり、橋本は「張り切って」その役割に挑んだ。その結果、背中に入れ墨をいれた男が振り返る絵に、有名な「とめてくれるなおっかさん 背中のいちょうが泣いている 男東大どこへ行く」のコピーをあしらった橋本のポスター案が採用となった。

ところで橋本の名を世間に広く知らしめたこのポスターのことを、私は橋本の本を読むようになってから知った。だが「とめてくれるな おっかさん」という言葉だけは、子供の頃から知っていた。それだけ流行していたのだろう。私はその言葉が橋本治によるものだと知って驚いたような世代だが、すでに橋本は一部では十分に有名だったからこそ、のちに「小説家」としてデビューした際に、すぐに一種の「スター」になれたのかもしれない。

「バカか、お前は──」という視線

さて、ではなぜ橋本は、このとき「一ヶ月の安静」が必要な事態になったのか。同じエッセイで橋本は、1968年に起きたことは1965年に起こったことの「再現」でしかなかった、と書いている。

高校2年から3年に進級する直前の三学期、橋本は同級生たちが「一斉に」受験勉強を始めたことに驚く。「2学期の終わりはそうじゃなかった。3学期開始の日がそのありさまなら、その状態は冬休みの間に確立されているのである」。自分以外の全員が、まるで誰かに指示されたかのように、「一斉に」態度を変えたことに深く傷ついた橋本は、3学期の終わり「高熱」を出し、「3日間学校を休んで、寝ている間に10キロも体重が減った」。橋本は高校3年の文化祭で、クラスの出し物のためにハリボテの「おそ松くん」を一人ですべて作る羽目になる。一斉に受験勉強の態勢に入った同級生は、誰一人手伝おうとしなかったからである。

1968年の秋の終わり、橋本はその「再現」に見舞われる。この年の駒場祭で橋本はポスター制作のほかに、デザイン研究会の展示パネルを制作し、見物客の似顔絵も描いた。歌舞伎同好会では『仮名手本忠臣蔵』で高師直を演じ、「松の廊下」の装置も制作した。美術サークルでは油絵を描いた。八面六臂ともいうべき働きである。しかしこうしたすべてに、同級生の一部からは「バカか、お前は──」という視線が飛んできた。なぜならこの年は、いわゆる「東大闘争」の年でもあったからだ。

「私は、1968年の大学闘争が、受験勉強と同じものだとは思わない。しかし、そこに吸い込まれて行った人間達の吸い込まれ方のかなりは、受験勉強に吸い込まれて行った時のノリと同じだったと思っている。スト中の「平和」と、駒場祭前後の「緊迫」を見ていて、私はそう思った。1週間でコロッと顔つきが変わった人間は、いくらでもいた。私は、そういう「真理への目覚め方」がいやだ。硬直した顔つきの中に、高校3年の時に見た顔がいくらでも浮かんだ。「もうそういうものはないはずなのに」と思って、でも、私の前には3年前の時間が甦って来た。私はもう、それがいやだったし、こわかった」(『「とめてくれるなおっ母さん」を描いた男の極私的な1968年』)

1968年11月の東大駒場祭のポスターが好評だった結果、橋本治は ”ほんのちょっとした「有名人」のようなもの” にもなってしまう。年が明けて1969年1月には東大闘争の──そして他の大学や高校をも巻き込む全国的な「学園闘争」の──象徴ともなる安田講堂の攻防戦が行われる。そのとき橋本治は歌舞伎座にいた。2月11日、橋本は2年前に「復活」したこの新しい「祝日」を、「そればっかりはいや」だと感じて大学に「同盟登校」し、黙って教室に座った。そして次の週に『妹背山婦女庭訓』の通しを見に行って体調を崩し、医者にかかったところ、「肝炎と腹膜炎を併発していて、私はそれから1ヶ月寝ていた」。これが「再現」の顛末である。

この長い「極私的」な回顧文は、次の言葉で終わる。

「高級なことを考える思考回路がまだ出来ていなかった私は、十七の時と同じように熱を出すしかなくて、しかしもうやせようのない私の体重は減らなかった。もう変わりようのない体を抱えた私は、「頭がよくなりたい!」と切実に思った。私の1968年は、そうやってブッ倒れるためだけにあったのである」(同前)

三島由紀夫と東大全共闘

冒頭の引用で「一九六九年の五月、三島由紀夫がそこにやって来て学生達と討論をした」とある出来事は、同じ年のうちに『討論 三島由紀夫VS東大全共闘 美と共同体と東大闘争』として新潮社から書籍化されてベストセラーになった。さらに2020年には、この討論の映像を含む『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』というドキュメンタリー映画作品が公開され、一定の話題を呼んだ。

橋本治は、大学時代のサークルの後輩の一人がこの討論会に参加していたこと、そして書籍化された際、自分の発言が「一行収録されている」ことを誇らしげに語ったことを記憶している。その後輩はそれから数年後に亡くなってしまうが、書籍化されたその「討論」のなかに、橋本はたやすくその後輩の姿を見つけることができたという。

「彼は三島由紀夫に対して、「あなたの言うことは分からない」と言っているだけなのである。いかにも向うっ気が強く、「一言ケチをつける」だけの役回りであっても、そこに自分が存在していることを喜んだ男──「なんであいつは、へんな自己主張ばっかりが強かったんだろう?」と、死んだ後輩を哀れにも思った。三島由紀夫は、そんな青年から一方的に、「僕は三島と関わった!」と自慢されてしまうような存在だった。」

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カナダのホワイトホースとドーソン・シティをつないでいた船。数年後、放火事件に見舞われる。1983年撮影。

この「討論」が行われたタイミングは、三島にとっては、あらかじめ計画されていたその死の約1年半前にあたる。東大闘争あるいは大学闘争そのものへの評価はここでは控えるが、三島の死から1年3ヶ月後に明らかになった「連合赤軍事件」によって学生運動は終焉へと向かったというのも、ほぼ一般的な理解であろう。つまりここで「討論」を行った両者は、それからさほど間をおかずに消滅してしまう。

ところで橋本治は三島由紀夫のことを、「生きている内」から既に”伝説”だったと書いている。そして「そのエピソードを知っている人」は、「三島由紀夫と共に生きていた時代のノスタルジーを語るだけの存在」になってしまう、とも。しかし死後の三島、つまり「作品だけになった三島由紀夫」は、「生きていた時の”伝説”では解読できない」。だから橋本治は、『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』を書くことで、「作品だけになった三島由紀夫」について、あらためて書く必要があった。

だが2020年の日本は、20年前の橋本のアプローチとは対照的に、半世紀前に亡くなった文学者の作品を──作者自身の死の有り様から切り離して──検討評価することよりも、生前の作者の映像や声から何かを聞き取ることのほうを選んだように、私には思えている。没後50周年を機に三島由紀夫の作品が新しい視点で読み返されたり、論じ直されたりするという事態がほとんど起きず、三島由紀夫の”伝説”を記録した映像の「衝撃」が繰り返し言及された。私はそのことに、橋本が「私はもう、それがいやだったし、こわかった」と書いた出来事の、三度目の「再現」を見た気がした。

では逆に、橋本治は2000年に──あるいは単行本化された2002年に──三島由紀夫を、どのように論じようとしたのだろうか。今回は前ふりだけで長くなったので、この続きは次回に展開することにしたい。

参考文献
「三島由紀夫」とはなにものだったのか』橋本治(新潮社 2005年)
『シリーズ20世紀の記憶 1968年 グラフィティ バリケードの中の青春』(毎日新聞社 1998年)
『討論 三島由紀夫VS東大全共闘 美と共同体と東大闘争』(新潮社 1969年)

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