岡村 毅

岡村 毅

(写真:IDEAPIXEL / shutterstock

あまり他人を信じない日本人。精神科医が患者の信頼を獲るためにしていることとは

膨大なデータのなかから最適解を見つけ出してくることはそれほど困難な時代ではなくなってきた。では現代において、特定の知識に対して造詣が深いというだけで、専門家は信頼を得ることはできるのだろうか。
信頼関係の構築が重要な専門職の一つである精神科医がどのように信頼を獲得できるよう働きかけているのか、現役精神科医に綴ってもらった。

Updated by Tsuyoshi Okamura on April, 25, 2023, 5:00 am JST

求められるのは専門家への信頼性と個人への信頼性

平たく言えば、専門家と個人のバランスが重要だともいえる。ハーズバーグの二要因理論をご存じだろうか。社員のモチベーションをどうやって高めるかということを説明するモデルである。職場というのは、やりがいがあってもあまりにもひどい職場環境だと人々はやめていくし、逆に給料がよくてもあまりにもやりがいがないと、やはりやめていく。前者は一部の学校の先生、後者は一部の金融業などをイメージするとよいだろう。これはつまり仕事のモチベーションはやりがい(動機付け要因)と給与など(衛生要因)の2つの要因があり、どちらもなければモチベーションはもたない。

それは信頼でもおなじことなのだ。それを図示するとこうなる。●は専門家、■は個人の信頼の高さを表す。専門家としての信頼性が低いと、信頼はたまらない(中)、もちろん個人としての信頼性が低くても信頼はたまらない。どちらも一定水準を満たしてこそ、一定の信頼がたまる。

日本人が人を信頼しないのは、リスクの低い社会だから

最後に信頼について、そもそも日本人は人を信頼しないという説について述べておく。著名な社会心理学者の故・山岸俊男は「信頼のパラドックス」について興味深い分析をしている。これは日本が比較的に安心安全な社会であり、一方で米国は危険も大きな社会であるにもかかわらず、日本人には「一般的に人は信頼できる」と答える人が少ない(そして米国は高い)というパラドックスである。山岸によれば、信頼とはある危機的状況で「相手は自分と同じように考えるだろう」と「えいやっ」と考えること、つまりリスクをとるということなのだという。信頼とはすべての人を信頼するわけではなく、信頼する相手を選ぶ権利はだれもが持っているということだ。つまり戦場でも信頼は生まれる。そして日本は安心な社会だが、人々はリスクを取ろうとしないので一般的信頼は低いと説明される。

そう考えると近年、危機にあって(原発事故、パンデミック)、信頼が醸成されないことも説明可能である。適切な専門家を正しく嗅ぎ取り(怪しげな人ではなく)その人を思い切って信頼するということは社会としてはできていないように思われた。

考えてみれば、医療現場こそ人生のリスク場面の最たるものだろう。例えば、手術か、放射線か、抗がん剤かという選択だ。〈手術は20%の確立で完治するが、60%の確立で体は弱るし、20%の確率で死亡する〉、〈放射線は10%で完治、90%でがんがやや縮小〉、〈抗がん剤は、10%で完治、20%で重たい副作用、20%で効果なし、50%でがんが縮小〉みたいな場合だ(あくまでこれは架空の例です)。こういう時には適切な医療者(怪しげな人ではなく)を信頼しなければならないのだ。医療においては、われわれ日本人が嫌いな〈リスクをとってアクションを起こす〉という場面にいやおうなしに置かれている。民間療法(単に○○を食べるとよいといった療法)に救いを求める人は、リスクをとってアクションを起こすということを回避しているだけかもしれない。そう考えると民間療法は、痛くなく、なんとなく美味しい、生活の延長みたいなものが多いのも納得だ。

以上をまとめると、あなたが信頼されない状況では、①自分の専門家としての能力が低い(と思われている)可能性、②自分の個人の信頼が低い(と思われている)可能性、③対象者がリスクのある危機的状況に激しい恐怖心を抱いている可能性、の3つを虚心坦懐に考えてみてもよいのではと思う。