小松原織香

小松原織香

「もののけ姫」(1997)より。

(写真:スタジオジブリ / StudioGhibli

将来への不安にまみれた若者こそ「もののけ姫」を観るべき。無力な主人公はどう生きたのか

環境問題や侵略戦争を筆頭に、世界は自分たちの手では解決できないかもしれない問題に溢れている。若者のなかには、この世界を憂いて不安症になる者もいるという。そんな人達に、今こそ観てもらいたい物語がある。『もののけ姫』(1997年)である。四半世紀に公開されたこの映画がなぜ今、重大な意味を持つのか。小松原織香氏が綴る。

Updated by Orika Komatsubara on April, 20, 2023, 5:00 am JST

希望の見えない世界に生まれてきてしまった子どもたち

1998年に製作・公開されたドキュメンタリー「『もののけ姫』はこうして生まれた。」は、2年間にわたり「もののけ姫」(1997年)の制作現場を記録している。6時間40分の大長編。ディレクターの浦谷年良は、アニメのことをよく知らず「知らないことを武器にしよう」と撮影に飛び込んだ。スタジオジブリに通い、1996年2月に本格的に撮影を開始。その頃はまだ、物語の半分しかできておらず、宮崎駿は絵コンテを切るために机に向かい、悪戦苦闘していた。ドキュメンタリーは、宮崎が「もののけ姫」で「何を描くべきか」を自問自答しながら創作していくプロセスを追っている。

「もののけ姫」の難題は、エンターテイメント作品であるにも関わらず、現代社会の人々が直面する問題を詰め込んでいることにある。性差別や障害者・病者に対する差別、自然破壊、繰り返される武力闘争、恐れを知る心と合理主義の対立など、一つのテーマで一冊の本が書けるような重い内容だ。そのなかでも、宮崎が一番重きを置いていたのが、子どもたちの問題だ。自然破壊は進行し、どうすれば食い止められるのか、皆目見当もつかない状況になってしまった。その状況を引き起こしたのは、先行した大人の世代である。それにもかかわらず、子どもたちは将来の希望の見えない世界に生まれてきてしまった。

「もののけ姫」(1997)より。

気候変動への憂いから「エコ不安症(Eco anxiety)」に陥る若者たちがいる

この問題は2023年の現在において、より深刻に受け止められている。ヨーロッパでは、気候変動をはじめとした環境危機に対し、グレタ・トゥーンベリのような子どもたちが立ち上がり、デモによってアピールを始めた。世界各地では将来に対する不安感から「子どもを持たない」という選択をする人たちも増えている。2019年のビジネスインサイダーのインターネット調査では、若い世代ほど環境危機への関心が強く、18歳から29歳の回答者のうちの38パーセントが、カップルが子どもを持つときに気候変動が将来世代に悪影響をおよぼすことを考慮すべきであると考えていた(Relman, E. & Hickey, W. 2019. More than a third of millennials share Rep. Alexandria Ocasio-Cortez’s worry about having kids while the threat of climate change looms. Insider, online. ) 。

また、気候変動について学ぶうちに将来への不安を強く感じ、精神的な苦痛が強くなる「エコ不安症(Eco anxiety)」に陥る若者たちもいる。このような状況を、宮崎は1990年代後半の時点で察知していたのかもしれない。

環境危機の難しさは、解決する方策が全く見えないことにある。気候変動は多くの国際機関の喫緊の課題として提起されているが、実効性のあるプランはいまだ不透明だ。宮崎は困難に、映画作品で立ち向かおうとすることが、物語の展開を考える上で行き詰まる原因になっていると言う。彼はドキュメンタリーの中で次のように語る。

解決不能な問題ですよね。それを解決可能な問題に限定して、とりあえずその課題をクリアするっていう映画作ってましたから。それが映画の枠内だってふうにね、思ってたけど。それでやると現代で僕らがぶつかってる問題とは拮抗しないっていう結論が出ざるを得ないから、「解決可能な課題じゃない」「解決不能な課題を作る」っていうね。ふふふっ、これは胃によくないですね。解決可能な映画を作ってるやつを見るとね、「能天気め」と思うと同時に羨ましいですよ。僕らは映画を作りすぎちゃったのかな、と。明るい部分で映画を作ってきましたからね。これは明るい部分で作ってませんからね。

祝福されない「呪われた生を引き受ける」ということ

たしかに、宮崎の作品には、困難に直面した少年少女たちが、自分たちの手で解決策を見つけ出し、前に進もうとするポジティブな価値観が通底している。だが、「もののけ姫」では「解決しない」という前提で物語を描くがゆえに、少年少女たちの行動も停滞してしまう。かれらは最後になにをなし得るのかが見えないのだ。宮崎は、現代の子どもたちは地球が有限であり、もう破壊され尽くされている場に、自分たちが生まれてきたことを知っていると考えている。それゆえに、かれらは自分たちの生が祝福されていないと感じているのだと語る。そのうえで、「もののけ姫」を通して、「多くの困難がはじめからわかっている場所でも、この場所で生きようと、あるいはともに生きようという人を見つけるという結末にしようとあがいているんですけど」とも言っている。「環境危機は解決しないし、地球は破壊されていくが、そこで私たちは生きていくんだ」ということを、宮崎は子どもたちに伝えたいのだ。「呪われた生を引き受ける」ということである。

人間の残虐性を隠していると、それがないことになってしまう

この背景には、宮崎の露悪的とも言える「人間は度し難い」という人間観がある。ドキュメンタリーでは、スタジオジブリ内でのNHK番組「映像の世紀」シリーズの勉強会の様子が映されている。この日は制作統括の河本哲也を招いて各々の人間観が議論されている。河本は「映像の世紀」を制作するにあたり、過去の人々が見ていた映像をテレビ画面に映し出すことを通して、時代の空気を伝え、一般の視聴者が追体験することを主眼に置いたという。彼はこう語る。

人間は歴史の教訓を学ばねばとかいろんなこと言いますけど、基本的には人間は同じことを繰り返すと。要するに、それは人間がいいとか悪いとかじゃなくて、一般の視聴者も含めた人間の業みたいなものです。

「もののけ姫」(1997)より。

このコメントに宮崎は同意し、笑いながら「このドキュメント作った人は悪意に満ちてるな」と感じたと話している。そこに割って入るのが、スタジオジブリのプロデューサー・鈴木敏夫だ。彼は率直に「映像の世紀」で放映された残虐な場面や殺戮の記録映像を観ていると快感があったと述べている。それと同時に脱力感もあり、視聴者に映像を配信することについての倫理的課題に直面した。彼は非公開だった歴史資料をテレビで放送することについて、「一部のある限られた人が見るってことと、これをテレビで堂々と大衆が見ちゃうってことはね、いったいどういうことだろうってことを考えざるを得なかった(中略)実を言うと、正直なことを言いますと、資料フィルムだってね、単独で全部見たくなったんですよね、観れるもんなら」と語る。つまり、こうした過酷な歴史記録を残酷見世物として消費しているのではないかと問題提起するのだ。それに対し、宮崎はこう反論する。

子どもの時、さんざん見たんですよ、そういうの。たとえば、ケロイド持ってる人が物乞いに来るとか。ケロイド見せて物乞いに来るとかね。図書館で本開いても関東大震災の死屍累々とか。東京大空襲の死屍累々の話とか、実際に人を斬ってきたことを自慢げに話す大人とかね。そういうのが周りにいましたから、そういうことを通じてまた、これを見なきゃいけない、読まなきゃいけないというものが、山ほど自分の青春時代を通じてあって。河本さんも同じじゃないかと思うんですけども。中国行って日本軍がやった事をはじめね、そういうことをさんざん自分に課して見てきたから、なんとなく子どもに伝わると思ってきたのね。で、ハッと気づいたら何にも伝わってないんですよ。

宮崎が指摘することは、人間の残虐性を隠していると、それがないことになってしまうという危険である。「映像の世紀」に記録された場面は、たしかに人間がしてきた営為の一部であり、事実である。それを目撃した人々がいる。その歴史を共有することが、「人間は度し難い」という諦念にも似た人間理解に繋がる。それこそが、今の子どもたちに必要なものではないか、と宮崎は考えているのだ。

「明るければなんでもいいんだ」というのは嘘だ

戦後の日本は貧困から這い上がるために、経済発展をさせ、明るい未来に向かって突き進んできた。そのなかで、こうした人間の暗い歴史は重く、ときにはうっとうしいものとされてきた。しかしながら、今はその重さこそが心地よい時代がきたのだと宮崎は考える。

「希望を持って生きなきゃ話にならん」という価値観を捨てた方がいいんじゃないかと、僕は思ってるんですよ。「そういうことでは理解しきれない現実とぶつかってんじゃないか」って気がしますね。「さあ、そこからどうしますか」とかってふうにしたほうがいいから、とりあえず加古隆の音楽(「映像の世紀」のテーマ曲)に流されてる。

「もののけ姫」(1997)より。

これらの宮崎の発言から、彼が「もののけ姫」の制作時には人間の善性ではなく、ネガティブな残虐さ、無力さに焦点を当てていたことがわかる。そのため、物語の主人公であり、あがいてもあがいても悪い方向にしかいかない、悲運の人間が設定される。それがアシタカである。彼は村人たちを救おうとしてタタリ神と戦ったばかりに、呪われて死ぬ運命を背負わされる。つまり、現代の悲運な子どもたちの象徴なのだ。

本当に根暗。「こんな根暗でいいのかな」っていうような主人公を作ってしまったんで。そうせざるを得なかったんですよね。「エイズにかかってる少年が明るいか」って言われたってね、僕はやっぱりそういう、アトピーにしてもなんにしても、そういうもの背負って生きてかなきゃいけないのがこれからの若者たちの宿命だと思ってるんで。そういう中に主人公を作るしかなかったから、「明るければなんでもいいんだ」というのは嘘だと。

アシタカは凛とした美しい少年であり、たとえ呪いをかけられたとしても、自分の運命を受け入れて前に進もうと試行錯誤する。一人で村を出て旅をしながら、タタラ場にたどりつく。そこで、人間の戦争の道具として生み出された銃弾が、獣を深く傷つけ、タタリ神を生み出していると知る。彼は呪われた自分の身をもって、人間の罪を告発しようと叫ぶ。

みんな見ろ。これが身のうちに巣食う憎しみと恨みの姿だ。肉を腐らせ、死を呼び寄せる呪いだ。これ以上憎しみに身を委ねるな。

その言葉を聞いて、タタラ場を統括するエボシ御前は激昂する。彼女は病や貧困によって打ち捨てられた人々を集めてタタラ場のコミュニティを作り、銃によってかれらの安全を守っている。彼女のコミュニティのリーダーとしてのリアリズムから言えば、アシタカの言葉はきれいごとにすぎない。

さかしらにわずかな不運を見せびらかすな。その右腕を切り落としてやろう!

宮崎は絵コンテの時点からこのセリフを気に入っていた。エボシ御前を演じる田中裕子に、彼女はこういう言い草が大嫌いだから激怒しているのだと解説している。「ええかっこしやがって」という気持ちなのだと。宮崎によれば、エボシ御前はこの作品の中で唯一の近代人であり、魂の救済を求めない。自分の運命を見極めて、意志を持って人生を切り拓いていく。その大人の女性に、アシタカの青臭い正義を語る言葉は通じない。

正しいことを行う主人公が空回りし続けた挙げ句、運命に対し何の力も及ぼさない物語

また、アシタカは自然と人間の対立に心痛め、両者の架け橋になりたいと切望し、山犬のモロに力を込めて語るが、一笑に付される。この場面で、モロを演じる美輪明宏に、宮崎は最初からアシタカがまともに相手にされていないことを説明している。モロにとって、アシタカは人間の使者ではなく、娘のサンに思いを寄せる少年でしかない。だから、からかっているのだと言う。

要するに娘の婿がきたわけですね。試しているわけです、そういう意味では。だから初めからあまり威嚇しないで。それほどムキになってやる相手じゃないんです、アシタカは。ただの小僧っこですから。

ここでも、アシタカの正義を語る言葉は相手に通用しない。最後には「小僧、もうおまえにできることはなにもない」と言い捨てられる。そして、実際にアシタカはなにもできず、森は破壊され、神々は殺されてしまう。彼の行動は次の一言に集約される。

すまない。なんとか止めようとしたんだが……

「もののけ姫」(1997)より。

彼は物語の中で空回りし続ける。自分の最善を尽くそうとするが何の役にも立たない。誰にも期待されず、誰にも求められず、それでも頑張り続けるが、何も起きなかった。こうしたアシタカの主人公像について、宮崎はこう説明している。

今まで、僕らが作ってきたものは、基本的にこう守るべき人間たち、それからその人間たちによって支持されている主人公だったんですけど、今度は違うんですね。要するに、露骨には言ってませんけど、はっきり「お前さんはいらない」と言われてる人間なんですよね。なくてもいいって、言ってたんです。「活躍しても別に褒め称えられない」っていうね。「おまえさんのやることはここにはない」っていうね。そういうこと言われる主人公が、しかもそれは、悪いことやった結果そうなったんじゃなくて「正しいことをやった結果そうなってしまった」ていうね。そういう人物ですから。それがどういうふうに受け入れられるのかですね。「受け入れられない部分」っていうのは作ってみないとわからない。この世の中に生きてて、謂れのない不条理な、肉体的にも精神的にも含めてババ引いてしまった人間たちが、[作品を観て]どういうふうに返してくれるんだろうというのが。それは今の若者たちが共通の運命なんですから、たぶん、いまぼくらが時代に感じてる閉塞感も含めて。いろんな気分というのは、何度も繰り返してね。歴史のいろんな場所で感じ取られてきたもののはずなんですよね。

つまり、アシタカは運命に翻弄される少年である。ドキュメンタリーの中で、彼が放り込まれた「もののけ姫」の物語の構造が、宮崎によって何度も図式化され、練り直されている様子が記録されている。

多くのエンターテイメント作品では、「宿命の対決」がクライマックスに来る。「もののけ姫」であれば、(A)サンや山の神々と(B)エボシ御前がぶつかる場面がそれにあたるはずだ。(A)vs(B)の戦いの結末を、視聴者はハラハラしながら見守る。だが、宮崎はそれではありふれていて面白くないとする。(A)と(B)の対立関係の外側に、圧倒的な武力を(C)侍集団を置く。つまり、大きな歴史の中では、(A)も(B)も滅びゆく勢力であり、(C)が暴力的に制圧していく運命が待っている。したがって、アシタカの(A)と(B)の間での葛藤はなんの力も持たないのだ。その結果、残された人間が「なんでこうなっちゃったんだろう」と思うような結末が「もののけ姫」には用意されることになった。

運命に負け続けるアシタカに見る、人が生きていくということ

それでは、「もののけ姫」は「人間には何もできない」というニヒリズムに満ちているのだろうか? そんなことはない。アシタカは何もできなかったにもかかわらず、相変わらず前向きである。彼は神々に「生きろ」と言ってもらえたと信じており、サンにも「サンは森でわたしはタタラ場でくらそう。共に生きよう。会いにくいよ。ヤックルに乗って」と明るく声をかける。失敗し続けても、「一生懸命やってダメだったが、また頑張ろう」という図太さがアシタカにはある。彼の将来について、宮崎はドキュメンタリーの中でこんなふうに語っている。

「偉いことを言った少年が見事に達成しました」みたいな話では全然なくて。とにかく、ようやくこれで生きることができる。これからタタラ場のこととサンのことで、間に割って入って、切り刻まれながら生きるしかない。その女の子(サン)と自分の国へ逃げたって、なんの解決もつかないから「ここで生きてく」って決める。そうすると、タタラ場の方は「木が五百本切りたい」というでしょ? で、サンのほうに行って「ちょっと五百本切らなきゃいけないんだけど」……ビリビリって裂かれて切られて「じゃあ、二百五十本」とかって。生きるってそういうことですよね。

「もののけ姫」(1997)より。

アシタカはどこまでもかっこ悪い人間である。宮崎の想像するその後の生活でも、人間と自然の関係の間でおろおろしながら生きていく。だが、それは人間に対する悲観でも、弱さへの耽溺でもない。ドキュメンタリーでは、アシタカが転んでしまって、そこから起き上がる動きを、宮崎が何度も描き直して試行錯誤している様子が映し出されている。リアリズムに沿って人間が転ぶ時の動きを忠実に描写しようとするが、理詰めで考えすぎると、常に安定したポーズになってしまい面白くない。また、運動の法則に沿っただけの描写だと、意思のある人間にならないと言う。「転んでしまう動き」と「立ちあがろうとする動き」が拮抗する瞬間を映し出したとき、アニメーションの中に生き生きとしたキャラクターが浮かび上がる。彼によれば、生理的快感から程遠い、かっこ悪い瞬間こそが、描くのが難しい。数秒のシークエンスを、何度でもやり直し、手を動かし、チェックして、また描く。宮崎はその労を惜しまない。この場面はアシタカの人生を象徴しているようにも見えた。

アシタカは運命に負け続ける。物語の構造としてそうなっている。だが、本人は負けるつもりは全くない。戦って、戦って、転んでも立ち上がり、それでも負ける。その、アシタカの負けまいと踏ん張る力こそを、宮崎はこの作品で描いている。無様で周りから笑われ、青臭いと言われても、アシタカは諦めない。そして「生きよう」とポジティブに言い放つ。その姿は滑稽ですらある。「もののけ姫」は馬鹿みたいに真っ直ぐな少年の物語なのだ。

「もののけ姫」は今こそ見るべき寓話なのかもしれない。先行世代に、将来不安という呪いを課せられた若者たちは、アシタカをどう見るのだろうか。もしくは、こんな作品を90年代に提示した宮崎駿をどう思うのだろうか。無責任だと怒るのだろうか、それともアシタカの姿を見て勇気づけられるのだろうか。環境危機が迫った現在だからこそ、「もののけ姫」は再検討する価値のある作品である。

*ドキュメンタリー内のインタビューの書き起こしの一部は毛羽取りをしています。