小松原織香

小松原織香

「もののけ姫」(1997)より。

(写真:スタジオジブリ / StudioGhibli

将来への不安にまみれた若者こそ「もののけ姫」を観るべき。無力な主人公はどう生きたのか

環境問題や侵略戦争を筆頭に、世界は自分たちの手では解決できないかもしれない問題に溢れている。若者のなかには、この世界を憂いて不安症になる者もいるという。そんな人達に、今こそ観てもらいたい物語がある。『もののけ姫』(1997年)である。四半世紀に公開されたこの映画がなぜ今、重大な意味を持つのか。小松原織香氏が綴る。

Updated by Orika Komatsubara on April, 20, 2023, 5:00 am JST

正しいことを行う主人公が空回りし続けた挙げ句、運命に対し何の力も及ぼさない物語

また、アシタカは自然と人間の対立に心痛め、両者の架け橋になりたいと切望し、山犬のモロに力を込めて語るが、一笑に付される。この場面で、モロを演じる美輪明宏に、宮崎は最初からアシタカがまともに相手にされていないことを説明している。モロにとって、アシタカは人間の使者ではなく、娘のサンに思いを寄せる少年でしかない。だから、からかっているのだと言う。

要するに娘の婿がきたわけですね。試しているわけです、そういう意味では。だから初めからあまり威嚇しないで。それほどムキになってやる相手じゃないんです、アシタカは。ただの小僧っこですから。

ここでも、アシタカの正義を語る言葉は相手に通用しない。最後には「小僧、もうおまえにできることはなにもない」と言い捨てられる。そして、実際にアシタカはなにもできず、森は破壊され、神々は殺されてしまう。彼の行動は次の一言に集約される。

すまない。なんとか止めようとしたんだが……

「もののけ姫」(1997)より。

彼は物語の中で空回りし続ける。自分の最善を尽くそうとするが何の役にも立たない。誰にも期待されず、誰にも求められず、それでも頑張り続けるが、何も起きなかった。こうしたアシタカの主人公像について、宮崎はこう説明している。

今まで、僕らが作ってきたものは、基本的にこう守るべき人間たち、それからその人間たちによって支持されている主人公だったんですけど、今度は違うんですね。要するに、露骨には言ってませんけど、はっきり「お前さんはいらない」と言われてる人間なんですよね。なくてもいいって、言ってたんです。「活躍しても別に褒め称えられない」っていうね。「おまえさんのやることはここにはない」っていうね。そういうこと言われる主人公が、しかもそれは、悪いことやった結果そうなったんじゃなくて「正しいことをやった結果そうなってしまった」ていうね。そういう人物ですから。それがどういうふうに受け入れられるのかですね。「受け入れられない部分」っていうのは作ってみないとわからない。この世の中に生きてて、謂れのない不条理な、肉体的にも精神的にも含めてババ引いてしまった人間たちが、[作品を観て]どういうふうに返してくれるんだろうというのが。それは今の若者たちが共通の運命なんですから、たぶん、いまぼくらが時代に感じてる閉塞感も含めて。いろんな気分というのは、何度も繰り返してね。歴史のいろんな場所で感じ取られてきたもののはずなんですよね。

つまり、アシタカは運命に翻弄される少年である。ドキュメンタリーの中で、彼が放り込まれた「もののけ姫」の物語の構造が、宮崎によって何度も図式化され、練り直されている様子が記録されている。

多くのエンターテイメント作品では、「宿命の対決」がクライマックスに来る。「もののけ姫」であれば、(A)サンや山の神々と(B)エボシ御前がぶつかる場面がそれにあたるはずだ。(A)vs(B)の戦いの結末を、視聴者はハラハラしながら見守る。だが、宮崎はそれではありふれていて面白くないとする。(A)と(B)の対立関係の外側に、圧倒的な武力を(C)侍集団を置く。つまり、大きな歴史の中では、(A)も(B)も滅びゆく勢力であり、(C)が暴力的に制圧していく運命が待っている。したがって、アシタカの(A)と(B)の間での葛藤はなんの力も持たないのだ。その結果、残された人間が「なんでこうなっちゃったんだろう」と思うような結末が「もののけ姫」には用意されることになった。

運命に負け続けるアシタカに見る、人が生きていくということ

それでは、「もののけ姫」は「人間には何もできない」というニヒリズムに満ちているのだろうか? そんなことはない。アシタカは何もできなかったにもかかわらず、相変わらず前向きである。彼は神々に「生きろ」と言ってもらえたと信じており、サンにも「サンは森でわたしはタタラ場でくらそう。共に生きよう。会いにくいよ。ヤックルに乗って」と明るく声をかける。失敗し続けても、「一生懸命やってダメだったが、また頑張ろう」という図太さがアシタカにはある。彼の将来について、宮崎はドキュメンタリーの中でこんなふうに語っている。

「偉いことを言った少年が見事に達成しました」みたいな話では全然なくて。とにかく、ようやくこれで生きることができる。これからタタラ場のこととサンのことで、間に割って入って、切り刻まれながら生きるしかない。その女の子(サン)と自分の国へ逃げたって、なんの解決もつかないから「ここで生きてく」って決める。そうすると、タタラ場の方は「木が五百本切りたい」というでしょ? で、サンのほうに行って「ちょっと五百本切らなきゃいけないんだけど」……ビリビリって裂かれて切られて「じゃあ、二百五十本」とかって。生きるってそういうことですよね。

「もののけ姫」(1997)より。

アシタカはどこまでもかっこ悪い人間である。宮崎の想像するその後の生活でも、人間と自然の関係の間でおろおろしながら生きていく。だが、それは人間に対する悲観でも、弱さへの耽溺でもない。ドキュメンタリーでは、アシタカが転んでしまって、そこから起き上がる動きを、宮崎が何度も描き直して試行錯誤している様子が映し出されている。リアリズムに沿って人間が転ぶ時の動きを忠実に描写しようとするが、理詰めで考えすぎると、常に安定したポーズになってしまい面白くない。また、運動の法則に沿っただけの描写だと、意思のある人間にならないと言う。「転んでしまう動き」と「立ちあがろうとする動き」が拮抗する瞬間を映し出したとき、アニメーションの中に生き生きとしたキャラクターが浮かび上がる。彼によれば、生理的快感から程遠い、かっこ悪い瞬間こそが、描くのが難しい。数秒のシークエンスを、何度でもやり直し、手を動かし、チェックして、また描く。宮崎はその労を惜しまない。この場面はアシタカの人生を象徴しているようにも見えた。

アシタカは運命に負け続ける。物語の構造としてそうなっている。だが、本人は負けるつもりは全くない。戦って、戦って、転んでも立ち上がり、それでも負ける。その、アシタカの負けまいと踏ん張る力こそを、宮崎はこの作品で描いている。無様で周りから笑われ、青臭いと言われても、アシタカは諦めない。そして「生きよう」とポジティブに言い放つ。その姿は滑稽ですらある。「もののけ姫」は馬鹿みたいに真っ直ぐな少年の物語なのだ。

「もののけ姫」は今こそ見るべき寓話なのかもしれない。先行世代に、将来不安という呪いを課せられた若者たちは、アシタカをどう見るのだろうか。もしくは、こんな作品を90年代に提示した宮崎駿をどう思うのだろうか。無責任だと怒るのだろうか、それともアシタカの姿を見て勇気づけられるのだろうか。環境危機が迫った現在だからこそ、「もののけ姫」は再検討する価値のある作品である。

*ドキュメンタリー内のインタビューの書き起こしの一部は毛羽取りをしています。