話し手が誰であっても、創作物の意味が変わらないのか
「だれが話そうとかまわないではないか」
このところ毎日のように耳にする、ChatGPTをはじめとした生成AIの話を聞くと、誰かがこのように言っているのではないかという気になってしまう。教育や文芸、音楽、ジャーナリズム、メディアなど多くの業界で議論が交わされてきた生成AIは、何をどのように変えようとして いるのだろう。機械が人間に代わって文章を書いたり、絵を描いたりできるようになると、その「作品」は誰によって作られたものになるのだろうか。AIが「作者」なのか、それともそのソフトウエアを操作した人間なのか。誰が何を話そうと何も変わらないのだろうか。
冒頭の言葉は、サミュエル・ベケットの小説『反古草紙』に出てくるフレーズで、ミシェル・フーコーが、1969年にフランス哲学会で行った「作者とは何か?[What Is an Author?]」と題する講演(同名の論文としても出版)の中で引用したものである。AI技術とは直接的に関係のない文脈で使用された文章だが、AIを用いた小説や絵画などの創作活動が議論を呼ぶ昨今、その作品は果たして誰のものか・誰によって作られたものなのかという問いは、フーコーが提起する問題と深く関わっているように思われる。AIは、私たちに多くの恩恵を与える可能性を持っていると同時に、著作権や剽窃、労働問題、さらにはジェンダーバイアスや経済的不平等を再生産・拡大させる恐れがあるなど、多くの問題を内包していることも指摘されている(板津木綿子・久野愛編『AIから読み解く社会』を参照してほしい)。こうした複雑かつ多様な問題を認識しつつ、ここでは、生成AIと作者性について、フーコーの議論も参考にしながら考えてみたい。
作者への「無関心」は倫理的な問題?
フーコーによると、「だれが話そうとかまわないではないか」という「無関心」は、「今日[1960年代当時]のエクリチュールの根本的な倫理的原則のひとつ」を孕むものだとする。それは、話し方や書き方を特徴づけるものであるだけでなく、書くという実践のあり方を支配する内在的ルールとして立ち現れる。この「無関心」とは、作者の立場からすると、自身のオーサーシップ、つまり作者としての権利を放棄することであり、そこに倫理的問題が潜 んでいる。かつて中世ヨーロッパにおいては、「作者」とは、唯一無二の天才的創作者として作品を創り出し、また支配する偉大な力を持つ存在として理解されていた。
こうした作者のあり方を批判した一人が、ロラン・バルトである。フーコーが「作者とは何か?」を発表した前年の1968年、バルトは論文「作者の死[The Death of the Author]」を出版し、近代において、神のような存在として創造力を奮う作者は「死んだ」、つまり作者は作品の「起源」ではないのだと論じた。代わって、読者が自由に文章の内容を読み取り、分散的に意味が生まれていくテクストがあるのみだと主張した。「テクストとは多次元の空間であって、そこではさまざまなエクリチュールが、結びつき、異議をとなえあい、そのどれもが起源となることはない」のだとバルトは論じる。テクストは作者ではなく読者の手に委ねられ、「だれが話そうとかまわない」わけである。
作者への「無関心」が「倫理的原則」だとするフーコーの真意には、複数の解釈ができるように思われるが、そこには、ベケット、そしてバルトに対する皮肉が込められているようにも感じる。フーコーは、「作者とは何か?」の中でバルトに直接触れてはいないものの、その議論はバルトへの批判であるともされる。
実際、フーコーは「作者は消滅したといたずらに空虚な断定のように繰り返すだけでは充分ではない」と述べ、概念装置としての偉大なる作者という考え方が、出版技術の進展や商業出版体制の確立などによっ て変化し、歴史的に構築されてきたことを指摘しつつ、暗に、バルトは「作者の死」を歴史化しきれていないことを示している。さらに「テクストの価値を作者の聖性によって証明」しようとする当時の文芸批評のあり方のなかに、バルトが死んだと述べる作者性が依然として根強く残っていることも示唆している。ここでのフーコーの議論の主題は、「作者」の「機能」を整理し、それがいかに構築・変化してきたのかを明らかにすること、そして主体のあり方について再考することでもある。