久野愛

久野愛

Pieter Claesz|Still Life with a Skull and a Writing Quill|1628

(写真:メトロポリタン美術館 / The Metropolitan Museum

生成AIは「作者」を殺すのか。そもそもテクストは、作者のものだとはいえないかもしれない

生成AIが書いた文章の「作者」は誰になるのかという問題はたびたび論じられている。『AIから読み解く社会』を執筆・編集した久野愛氏が、そもそも「作者」とはどのような存在なのかを紐解く。

Updated by Ai Hisano on May, 24, 2023, 5:00 am JST

作者には「機能」がある

フーコーは、「作者」(厳密には「機能としての作者」)について4つの特徴を挙げる。

まず一つに、ある作者による書物やテクストは、「所有の対象物」である。これは、18世紀末以降、西洋諸国において著作権や転載権などに関する規則が制定されたことで、作者というものが所有の体系の中に組み込まれた結果である。

第二に、機能としての作者は、あらゆる言説に対して普遍的かつ恒常的に作用するものではない。例えば、歴史的にみると、日本を含め世界的にも、多くの創作は集団的制作であり、名前のある作者や単独の作者というものはむしろ例外であった。

第三に、作者という機能は、ある言説をある個人に帰属させるよう自動的に形成されるものではなく、複雑な一連の操作によって定義される。最後に、こうした機能としての作者は、「動きをもたぬ素材としてあたえられたテクストを出発点として二次的につくりあげられる純粋単純な再構築物ではない」ということである。

こうしてみると、フーコーが提示しているのは、バルトが論じたような、作者の死に代わって誕生した読者という二者択一の問題としては捉えきれない作者の機能・作者性のようにも思われる。

フーコーによれば、「作者名は固有名詞のように言説の内部から言説を産出した外部にいる現実の個人に向かうのではなく」、言説の中で立ち現れるものである。よって、作者を「現実の作家の側に探すのも、虚構の発話者の側に探すのも同様に誤り」であり、「機能としての作者はこの分裂そのもののなかで—この分裂と距離のなかで作用する」のだと述べる。

同時にフーコーは、「作者とは何か?」の最後で、「機能としての作者がけっして現れることなしにもろもろの言説が流通し、受けとられるようなある文化を想い描くこと」ができると述べ、再びベケットを引用し「だれが話そうとかまわないではないか」という言葉で締めくくっている。あらゆる言説が匿名性のうちに繰り広げられるようになった時、そこで問われるのは、「現実にはだれが語ったのか?」や「それは本当にこの人であって他のだれでもないのか?」といった問いに代わり、「この言説の存在様態はいかなるものか?それはどこから取られてきたのか、それはどのようにして流通できるのか、まただれがそれを自分のものとして所有できるのか?ありうるかもしれぬ主体のためにそこに用意されている位置とはいかなるものであるのか?だれが主体のこれら多様な機能を満たすことができるのか?」という問題なのだという。

生成AIを使って小説を書いたとしても、機械が人間の作者を「殺す」ことはない

Yashima Gakutei|Court Lady at Her Writing TableFrom the Spring Rain Collection (Harusame shū), vol. 3(Metropolitan Museum

フーコーが想い描いた匿名性の文化とは、例えば、現在、私たちが目の当たりにしているAI技術が創作活動に関わること、技術と人間の境界が不鮮明になりつつある世界も当てはまるのだろうか。そうだとしたら、だれが話そうとかまう必要は本当にないのだろうか。

作者の問題を通して生成AIについて考えていた矢先、2023年5月頭に『Death of an Author: A Novella』というミステリー小説が出版されたことを知った。バルトの論考を彷彿とさせる本書は、小説家でありジャーナリストでもあるStephen Marcheが、「Aidan Marchine」というペンネームで出したものなのだが、その95%が、ChatGPTやSudowriteといった複数の生成AIソフトウエアによって作成した文章だという。

Marcheは、生成AIの可能性を認めつつ、その技術に懐疑的な態度も示しており、今回の小説出版は、こうした技術と創作活動、作家のあり方について問題提起をするためのものだったともいえる。インタビューの中でMarcheは、生成AIを使ったとしても、人間が細かな指示をインプットする必要があるなど、必ずしも完全に「自動」で小説が生まれるわけではないことを強調している。実際、ChatGPTなど生成AIを使った効果的な文章の書き方をまとめたサイトの多くも、書き手が自分自身の考えを盛り込むべきであることや、最終的なチェックは自分で行うことが重要だとアドバイスしており、最終的な人間の判断が不可欠であることを指摘する(例えば、この英語サイトでは、AIで書いた文章を「パーソナライズ」する方法などのアドバイスも載っている)。

さらにMarcheは、AIがそのほとんどの文章を作り出したとはいえ、最終的にできあがったこの小説は、他の誰でもなく自分にしか作れなかったものだと話す。すなわちMarche自身は、「作者」としての自分の存在・機能を認識しているわけである。ここでは、二重の意味で、(現実にせよ虚構にせよ)作者は死んではいないのかもしれない。一つには、バルトやフーコーが言うところの、創造の主・物語の起源としての作者というものをMarcheは提示(自認)しているという意味において、もう一つは、いくら機械が介在しても、機械が人間の作者を「殺す」ことはないという意味においてである。一方で、バルトが「テクストとは無数にある文化の中心からやってきた引用の織物」だと論じるように、Marche(正確にはMarchine)が書いたこの小説のテクストとしての意味や、読者の受け取り方は一つではない、すなわちMarcheの意図に関わらず作者は死んだともいえるのだ。そして、AIが作り出したものであるからこそ、テクストは、人間が書いたものよりも一層分散的に編まれたものだといえるかもしれない。