長滝 祥司

長滝 祥司

Arie Willem Segboer|Het oolijke zwijntje|1903-1919

(写真:アムステルダム国立美術館 / Rijksmuseum Amsterdam

豚は裁判にかけられた。「人間以外」が道徳を問われたとき

2023年4月、ロボットが公道を走行することが可能になった。事業者は安全には万全を期するはずだが、それでも万が一のことは発生しうる。そのとき、責任は誰がとるのだろうか。ロボット自身がとることは可能だろうか。一見奇妙な考え方だが、人類の歴史を遡ってみるとそのような考え方が生じる可能性はなくはない。まずは人間と動物の道徳関係を紐解いてみよう。

Updated by Shoji Nagataki on May, 31, 2023, 5:00 am JST

動物に道徳はあるか?

人間と人間以外の存在者との道徳的関係ということで、ただちに思い浮かぶのは動物である。近年、アニマル・モラリティやアニマル・エシックスといったことばを目にする機会が増えた。そうした関心は日本ではさほど盛り上がる気配を見せていないが、アメリカやヨーロッパではベジタリアン文化とともに一定の歴史があり、この分野の研究者も多い。G・コムストックによれば、1970年代から1999年までがトム・リーガンピーター・シンガーらに代表される第一の波で、2000年から現在までが第二の波だとされる。第二の波では、女性研究者の数が飛躍的に伸びた。マーサ・ヌスバウムやクリスティン・アンドルーズは第二の波の代表格である(1)。この間、アメリカでのベジタリアン人口は1.2%(1978年)から6%(2018年)に増加している。

とはいえ、動物が人間とおなじ意味で道徳的だと主張するのは難しい。道徳性には一定の段階がある。よく知られているのが、道徳的行為者(moral agent)と道徳的被行為者(moral patient)との区別である。道徳的行為者とは、自らなす行為に道徳的責任を担い、行為の善し悪しを評価されるものである。同時にそれは、道徳的責任の対象でもある。これに対して、道徳的被行為者自身は責任の担い手ではないが、道徳的行為者がその利害について責任を負わなくてはならない対象である。道徳的行為者の責任の対象には、道徳的被行為者も含まれている。前者については大人の人間を、後者については子どもやペットなどを思い浮かべていただきたい。

以下では、人間と人間以外の道徳的関係をめぐる問題について、動物に焦点をあてて論じることとする。具体的には、動物を道徳的被行為者や道徳的行為者として扱ってきた日本とヨーロッパの歴史を手がかりに、人間と動物とのあいだで道徳性を問うとき何が問題になりうるか考えてみたい。

生類憐れみの令の保護対象には、捨て子や病人、高齢者が含まれていた

初代将軍徳川家康から250年余り続いた江戸幕府の歴史のなかで、第五代将軍、徳川綱吉(在位1680-1709)は、「生類憐れみの令」と名づけられた悪法で知られている(2)。この法律は、蚊のような昆虫から、猫や犬や猿までありとあらゆる生物を人間が殺傷しないように定めたものである。この法令によって保護される対象には、捨て子や病人、高齢者も含まれていた。現代の日本でも「動物愛護管理法」があり、たとえば野良猫や野鳥などを理由もなく殺傷すれば、処罰の対象となる。

綱吉の時代は元禄時代(1688-1704)とよばれ、ペットを飼育することが庶民にまで広がった時期であった。江戸時代には、海外からも多くの動物が輸入され、ペットとして愛好されていた。いっぽうで、当時は食犬の習慣があり、身分の高い人の行う鷹狩りの鷹を飼育するために犬肉が使われていたが、綱吉以降、それも禁止された。鷹狩りは権力の象徴とされ天皇や将軍がたしなんできたが、綱吉自身は鷹狩りをしなかった。

生類憐れみ政策のもとで、犬や猫や馬をはじめとする生き物たちは、徹底して保護されるべき対象となっていた。綱吉政権はとくに、飼育している動物の毛色を記した毛付帳とよばれる台帳の提出をひとびとに命じた。現在、犬・猫・馬のものが残っている。保護される対象には、動物だけでなく、弱い人間(捨て子や病人、高齢者)もふくまれていることは注目すべきだろう。つまり、動物たちも弱い人間とおなじように弱者とみなされ、いかに人間に面倒をかけようとも、処罰の対象になることはなく、もっぱら過剰なまでの保護の対象であった。この点で、動物たちはかなり特別な道徳的被行為者であったと言える。同時に、「御犬様」といったことばからも分かるように、犬に人格や個性を付与し、具体的な個人としてあつかおうとした様子もうかがえる。個々の動物を管理するための戸籍のようなもの、毛付帳を作らせたこともそれを傍証している。