長滝 祥司

長滝 祥司

Arie Willem Segboer|Het oolijke zwijntje|1903-1919

(写真:アムステルダム国立美術館 / Rijksmuseum Amsterdam

豚は裁判にかけられた。「人間以外」が道徳を問われたとき

2023年4月、ロボットが公道を走行することが可能になった。事業者は安全には万全を期するはずだが、それでも万が一のことは発生しうる。そのとき、責任は誰がとるのだろうか。ロボット自身がとることは可能だろうか。一見奇妙な考え方だが、人類の歴史を遡ってみるとそのような考え方が生じる可能性はなくはない。まずは人間と動物の道徳関係を紐解いてみよう。

Updated by Shoji Nagataki on May, 31, 2023, 5:00 am JST

品行方正なロバは、裁判で無罪を勝ち取った

動物の「悪事」のもうひとつの代表的な事例は、人間との性交渉である。キリスト教の立法者は、獣との性交渉を禁じるユダヤ教の掟を採用した。つまり、当時、獣と性交渉をする人間がいたことを意味するのだ。日本でも、過去の歴史において、獣姦が行われていたことは間違いない。深沢七郎の原作をもとに作られた映画『楢山節考』では、貧しい下男が欲求を満たすために雌犬を強姦するシーンが描かれている。

嬰児殺しにせよ、獣姦にせよ、その時代のヨーロッパでは、罪を犯した動物は刑罰の対象になった。動物と性交渉をした人間とともに、動物も罰せられるのである。もちろん動物たちは、善悪を区別したうえで意図をもって行為したわけではない。豚は自分のおこないを悪いと分かりつつ、子供を食い殺したわけではない。空腹のあまり、そうしたのだ。あるいは、餌と人間との区別さえつかないのかもしれない。ときには、じぶんの子どもを守ろうとしただけなのだろう。獣姦の場合は、動物は人間との性交渉を自ら望んだわけではない。

犯罪に巻き込まれたかわいそうな動物が、裁判で無罪を勝ち取ることもあった。1750年にパリ近郊のバンヴで、雌のロバがその主人とともに、獣姦で裁判にかけられた事例である。無罪となったのは、住民たちがその雌ロバの「性格」を品行方正と保証し、しかも「彼女の自由意志で」その犯罪に加担したのではないと認められたからである。エヴァンズの記述を見ると、ロバに人格を認めているようにもとれる。住民がロバを救おうとして裁判に提出した記録には、「ロバが有徳である」とか「慎み深い」、「だれとももめ事をおこさなかった」、「誠実であった」などと書かれていた。かりにそうだとしても、動物たちの行為は意図をもってなされたわけではない。言いかたを変えれば、意図にもとづく自由な行為ではない。別の行為もありえたのに、あえて意図的にそうしたわけではないのだ。豚は、空腹のあまり子どもを食べたのであり、殺すことを意図していたわけではない。

動物が道徳的行為者だと認めたからこそ、所有者は罪を問われなかった

最後に、裁判にかけられる動物たちの所有者はどのような立場にいたのだろうか。所有する動物との姦淫を罰せられた飼い主は、その動物とともに刑を執行された。いっぽう、子どもを殺した豚の裁判の絵には飼い主は描かれていない。所有者への責任はほぼ不問に付された。残存する裁判記録には、嬰児殺しをした豚の飼い主(所有者)に償いとして巡礼をさせた事例がほんの少しだけある。だが通常は、動物の所有者はなんの罪科にも問われず、処刑された動物の補償金をもらうことさえあった。罪を犯した動物の飼い主が罪に問われないということは、当該の動物が責任主体、道徳的行為者だと認めているのである。

とはいえ、所有者である飼い主に補償金を支払うといった事例や、飼い主が被害者にたいする贖罪金を支払わされた事例などと合わせて考えると、ここには、道徳的行為者と道徳的被行為者との単純な区別にはうまくおさまらない動物のあり方が垣間見える。そもそも現実世界に存在しているのは、二つのあいだのさまざまな程度の中間的な存在者なのではないか。