長滝 祥司

長滝 祥司

(写真:arda savasciogullari / shutterstock

ロボットが道徳的行為者となるとき

AIが意思を持って動き出しているような事象が増えている。意見がわかれるところであるが、すでに生成AIには「意識」があると捉えている研究者もいる。ではそのようなプログラムを搭載したロボットは「道徳」を持ちうるのだろうか。
また人間は、動物やロボットと道徳的関係を築くことはできるのか。身体性を軸に考察を続けている哲学者が紐解く。

Updated by Shoji Nagataki on July, 28, 2023, 5:00 am JST

人間と機械の境界はすでに消失している

B・マズリッシュ(Mazlish 1993)によれば、これまで人類は四つの時代を経験してきた。それら四つは二項の境界の消失によって特徴づけられている。すなわち、①地球と宇宙(コペルニクス)、②人間と動物(ダーウィン)、③身体と精神(フロイト)、④人間と機械、である。第四の境界の消失を担った者にだれをあてるかは意見が分かれるが、個人的にはアラン・M・チューリングの名をあげたい。

すでにみたように(1)、ダーウィンが現れる以前にも、第二の境界は、動物のペット化や家畜化によって社会的には消失していた。日本の「生類憐れみの令」やヨーロッパ中世から近代にかけて頻繁に行われた動物裁判は、動物の人間化、人格の付与であった。それは、人間と動物との生活上の距離、物理的身体的な距離の狭まりによるものでもある。野生動物は、人間にとって未知の存在でそれゆえ神秘的な部分もあった。やがてそれが人間の生活圏へと入り込み、コミュニケーション可能な存在へと変わっていったのである。

そして現在、第四の境界の消失は、たんなる理念を超えてますます現実味を増してきた。ChatGPTの出現に象徴されるように、言語運用のような本質的な部分にかんして、人間と同等以上の能力をもつAIや、さらには知的ロボットが現れつつあるからだ。ロボットに関心をもつ一部の科学者や技術者、哲学者などのなかには、こうした能力に「道徳的行為者性」(moral agency)を加えることが可能かどうかを議論する者も出てきた(2)。人間とロボットとのあいだに道徳的な関係性を築くことは可能なのか、あるいはそうしたことに意味はあるのか。後者に疑いをもつひとたちは、ロボットがどんなに高い能力をもっていても、それはあくまでも優れた「機械」であり、デカルト流にいえば、レース・エクステンサだと断じる。道徳的行為者とは何か。あるいは、機械が道徳的になるとはどういうことか。こうした問いは、能力に焦点をあてたマズリッシュの議論とは異なる意味において、第四の境界が維持されるか否かを占うものである。

本稿では、動物の社会性という観点から、人間と動物との道徳的関係について考察し、人間と動物の道徳的関係を、人間とロボットとの関係へと拡大して議論を進めていく。そのうえで、ロボットが道徳的行為者になりうるためのヒントを、所有や傷つきやすさの概念のなかに探っていきたい。