長滝 祥司

長滝 祥司

(写真:arda savasciogullari / shutterstock

ロボットが道徳的行為者となるとき

AIが意思を持って動き出しているような事象が増えている。意見がわかれるところであるが、すでに生成AIには「意識」があると捉えている研究者もいる。ではそのようなプログラムを搭載したロボットは「道徳」を持ちうるのだろうか。
また人間は、動物やロボットと道徳的関係を築くことはできるのか。身体性を軸に考察を続けている哲学者が紐解く。

Updated by Shoji Nagataki on July, 28, 2023, 5:00 am JST

所有から逸脱するロボット、ヒューマノイド

人間と動物との道徳的関係を考えるなかで言及した、所有者と所有物の問題に触れてみよう。存在者が所有されるものから脱すると言うことは、自律性の獲得を意味する。動物にせよロボットにせよ、たがいに知ることのできない内面をもつことが、自律性とリンクしている。そしてその内面性は、行動の把握不可能性に由来する部分がある。

たとえば、人が傷ついた野生動物を保護するような事例を考えてみる。そのひとは、その動物を保護しケアする過程において、その動物の行動に責任をもたなくてはならない。一時的にせよ、そのばあい、人間と動物とは所有―被所有の関係になる。保護された動物が人間に心を許したことの証として、触覚的な交流が生まれることもある。傷がやがて癒えて、その動物を野生に返すときがくる。それは、動物が自律性を取り戻す瞬間である。野生に返った動物は、保護した人間の手を離れ、触れることも、その行動を把握することもできなくなるからである。

人間とロボットとの所有―被所有の関係やロボットの自律性について考えるために、SFアニメ『イヴの時間』を取り上げてみよう。このドラマの舞台は、ヒューマノイドが人間生活に深く入り込んでくる近未来である。登場するヒューマノイドの外見は、『ブレードランナー』のレプリカントとおなじように、人間とそっくりに作られている。ただし、それが機械であると分かるように、頭の上にホログラムのリングをつけている。

ドラマの主人公のリクオの家庭では、家事ロボットが所有されている。それには「サミィ」という名前があたえられ、ある意味人格性が付与されている。サミィは人間そっくりで、会話も流暢にできる。とはいえ『イヴの時間』のなかでは人間とロボットとのあいだには明確な境界線があり、後者はある種の差別を受けている。サミィの皮膚が人間のようであるかどうかは、明らかではない。だがドラマでは、サミィの身体の一部を思わずつかんでしまうシーンなどが描かれていて、そこから堅い金属状の表面ではないと推測できる。『イヴの時間』のなかで、人間がヒューマノイドたちに触れる場面はあまりない。触れることは、両者の境界を越えることだからであろう。

この物語において、サミィは、主人である人間の所有物である。彼女は家事の一環として、買い物などをするために、自由に外出することができる。所有者のリクオは、サミィの行動を追跡するツールをもっているが、具体的にどのような場所でどのような行動をしているかについては、彼女自身の報告を信用するか、所有者自身があとをつけて確認するしかない。野生の動物でもそうであるが、サミィはある意味で、意識的であるかどうかは定かではないが、自身の意図にもとづいて自由に行動を選択している。所有者の制御を逸脱していくという点で、このヒューマノイドは通常の事物が被所有物であるのとおなじ意味では被所有物ではない。もちろん以上はあくまでも思考実験にとどまるものではあるが、ここに、ヒューマノイドが道徳的行為者性をもつ可能性を見出すことができる。

いっぽう、おなじロボットでも、自動運転のAI自動車については、それが自由に行動することは開発者や使用者の念頭には置かれていない。たんに目的地に到達するためだけに作られた機械と、家事という、いわば「人間の存在の世話をする」(吉本隆明)能力を備えたヒューマノイドとの決定的な違いがここにある。

意識をもつロボットは道徳的行為者になりうるか

野生の動物とペットや家畜との違いのひとつは、所有者がそれらに触れることができるか否かである。われわれは野生の動物に触れる機会はほとんどないが、ペットや家畜には共感をもって触れるのである。とはいえその共感は、おおよそ所有―被所有の関係の範囲内にある。

ロボットは、これまで存在していなかったという点で動物とは異なる――野生のロボットなど存在したためしがない。それは人間の製作物である以上、その存在の始まりから人間の所有物である。ところが、生成AIや知的ロボットのような機械が自律性をもち、人間の制御を完全に離れていく未来の可能性が垣間見えている。制御不能に陥るまえに、機械に安全装置を組み込むといった考えもあるが、人間のそうした抵抗も進歩(あるいは、機械の自己学習や発達)によって無力化されていくだろう。

やがてそれに、自己意識のようなものが生じ、人間の所有物でなくなるかもしれない。さらにそれは、じぶんの身体を作り始めたり、改造し始めたりするかもしれない。自己意識と身体をもった機械は、どんな「進化」の軌跡を描くのだろう。それは、ある種の弱さを自覚し、人間との共存を選択するのか、傷つきやすい表面―皮膚をおのれの身体に装備しようとするか。これらの問いの答えがイエスであれば、未来のロボットは道徳的行為者性をもつ存在となる。

《8月1日配信》人類には身体があるじゃないか。生成AIが手を出せない、計算不可能な価値の作り方
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(1) 豚は裁判にかけられた。「人間以外」が道徳を問われたとき
(2) 研究概要|道徳の起源と未来の学際的探求
(3) Monso, S. & Wrage B. (2023) をはじめとするAnimal Morality Conference, 22-24th February 2023 in Vienna, AustriaでのプレゼンテーションやBotero, M.. (2016)などを参照。

参考文献
Botero, M. (2016). Tactless scientists, ignoring touch in the study of joint attention. Philosophical Psychology, 29, 1200-1214.
Cooke, S. (2023). The ethics of touch and importance of nonhuman relationships in agriculture. Animal Morality Conference, 24th February 2023 in Vienna, Austria
Field, T. (2001). Touch. Cambridge, MIT Press.
Hertenstein, M. J. (2002). Touch: Its communicative functions in infancy. Human Development, 45, 70–94.
Hertenstein, M. J., Keltner, D., App, B., Bulleit. A. B., and Jaskolka, A. R.  (2006). Touch communicates distinct emotions. Emotion, 3-6, 528-533. DOI: 10.1037/1528-3542.6.3.528
Mazlish, B. (1993). The fourth dincontinuity: The co-evolution of humans and machines, Yale University Press. 
Monso, S. & Wrage, B. (2023). Tactful animals: How the study of touch can inform animal morality debate. Animal Morality Conference, 23rd February 2023 in Vienna, Austria
Stack, D. M. (2001). The salience of touch and physical contact during infancy: Unraveling some of the mysteries of the somesthetic sense. In J. G. Bremner & A. Fogel (Eds.), Blackwell handbook of infant development, Blackwell, 351–378.