松浦晋也

松浦晋也

(写真:JAXAデジタルアーカイブス / JAXA

人類が宇宙へと飛び出していった本当の理由

現代では、危険な場所への調査・探索はまずはロボットに行かせ、その後、最もリスクの低いルートを人類が辿るという方法が当たり前になっている。しかし、1950年代に行われた宇宙の調査では早い段階で有人飛行が行われた。なぜなのか。科学ジャーナリストの松浦晋也氏が解説する。

Updated by Shinya Matsuura on September, 1, 2023, 5:00 am JST

古来から人類は宇宙飛行を夢見てきた

前回までの衛星地球観測に代わって、今回から有人宇宙飛行について考えていくことにする。宇宙飛行というとなにか楽しげな印象を持つ人が多いだろうが、それは本当に楽しいものなのか、どのような意味があるものなのか。今後どのように発展していくものなのか、あるいはさせていくものかを考察していく。

皆さん先刻ご存知のように、古来から人類は宇宙飛行を夢見てきた。古代ローマの風刺作家ルキアノスの「ほんとうの話」で、主人公は乗った船が嵐で空中に飛ばされて月にたどり着く。平安前期に成立した「竹取物語」の主人公かぐや姫は月の女性だ。つまり月に人が住んでいて、地表と往来しているという空想が成立している。劇作家シラノ・ド・ベルジュラックの「別世界又は月世界諸国諸帝国」(1657)で、主人公は火箭を束ねて多段構成にした乗り物で月に到達する。現在の多段式ロケットのはしりと言えるだろう。

物語としての地表と宇宙との往来に、物理的な裏付けが与えられるのは19世紀に入ってからだ。フランスの作家ジュール・ヴェルヌが1865年に刊行した小説「月世界旅行」では、コロンビヤード砲という巨大な大砲が打ち出す弾丸に乗って3人の男が月へと向かう。この小説では、月に向かう軌道や月到達にかかる飛行時間などはニュートン力学に基づいて計算されている。作中で打ち上げに最適な場所として選定されたアメリカ大陸・フロリダ半島には、一世紀の後、有人月探査を目指す「アポロ計画」のために、ロケット発射基地であるケネディ宇宙センターが建設された。

兵器という隠れ蓑を使い、国の資金で宇宙探査のためのロケットを開発

ロケット推進そのものは古代中国の火箭・火槍から、日本戦国期の龍勢、近代欧州のコーングレーヴ砲に至るまで様々な形で兵器や情報伝達手段として利用されてきた。1897年にロシアのコンスタンチン・ツィオルコフスキーが、宇宙空間の航行にはロケット推進が必要なことを指摘し、かつロケット推進の工学的基礎となるツィオルコフスキーの公式を導出したことで、宇宙旅行は空想するものから、現実の技術的課題となる。

1923年、ドイツの研究者ヘルマン・オーベルトがロケット推進の解説書「惑星間宇宙へのロケット」を出版し、欧米を中心に宇宙旅行ブームが巻き起こる。1926年、アメリカの工学者ロバート・ゴダードが世界初の液体ロケットの打ち上げに成功。1927年オーベルトなどにより宇宙旅行を目指す世界初の民間団体であるドイツ宇宙旅行協会(VfR)が設立される。1931年ソ連で民間ロケット研究団体の反動推進研究グループ(GIRD)が活動を開始、1933年、イギリスで英国惑星間協会が結成。

VfRメンバーであった、工学者ヴェルナー・フォン・ブラウンは、その後ナチス・ドイツのロケット兵器「V2」の開発を主導することになる。GIRDに参加したセルゲイ・コロリョフは、その後ソ連の宇宙開発の中心人物となった。

第二次世界大戦末期の1944年、フォン・ブラウンらが開発した世界初の大陸間弾道ミサイル「V2」が実戦投入される。V2は現在のロケット技術の基礎と言うべき存在で、第二次世界大戦終結後、アメリカとソ連はその成果を持ち帰り、それぞれ兵器として発展させることになった。フォン・ブラウンはアメリカに投降し、後に移住。アメリカでロケット開発を進めることになる。

米政府及びソ連政府にとって、ロケット技術は有力な兵器のひとつという認識だった。が、それぞれの国で技術開発の先頭に立ったフォン・ブラウンとコロリョフにとっては、兵器という隠れ蓑を使って国の資金で開発できるロケットと、そのロケットに実現可能となる宇宙旅行・宇宙探査こそが真の目的だった。

真空、無重力、放射線……危険が伴うにもかかわらず、誰も有人の宇宙飛行を疑わなかった

先行したのは、ソ連だった。核兵器を持って米ソが対峙した冷戦の時代、アメリカは核兵器を戦略爆撃機で相手の頭上に投下するという手段を選択した。対してソ連は、大型のロケットで核兵器を相手の領土に打ち込む方法を選んだ。大きく重い核兵器を運ぶには、大型のロケットが必要になる。そうして開発された大陸間弾道ロケット「R-7」は、人が乗る宇宙船を打ち上げるのに十分な能力があった。

かくして、宇宙開発初期に先行したのはソ連だった。1957年10月4日、世界初の人工衛星「スプートニク1号」を打ち上げ。そして1961年4月12日には、ユーリ・ガガーリン飛行士が搭乗した世界初の有人宇宙船「ボストーク1号」が地球を一周することに成功したのである。

駆け足で、古代の夢想からガガーリンの飛行までをたどってきたが、現在の視点からすると、ここにはひとつの特徴がある。「誰も有人の宇宙飛行を疑っていない」ということだ。宇宙空間は真空で、かつ地上のような重力も感じない。20世紀に入ってからの研究で地上よりはるかに強い放射線被曝を受けることも分かってきた。決して、人にとって優しい環境ではない。しかるに、歴史的には「人が宇宙に赴くこと」への疑問は希薄だ。

当たり前だ。20世紀も1970〜80年代になるまで、未知の場所を調べるためには人が赴く以外の方法はなかった。

大航海時代、人が航海に出ることなく未知の海、未知の大陸を調べる方法はなかった。アジア内陸に幻の湖を探した時も、地図の空白であったアフリカ内陸に川の源流を求めた時も、北極海の大陸の有無を探査した時も、南極大陸を発見して内陸を踏査した時も、すべて人が赴いた。

調査・探査は、観察し、思考し、記録する能力を持つ人が行うべき課題だった。だから宇宙飛行が現実の技術的課題となった時、すぐに有人宇宙飛行が計画されたのはごく自然なことだったのである。

ロケットよりも課題が複雑。ロボット開発は実現が遅れた

一方で、人は宇宙旅行と同じぐらい長い期間、人に代わる存在——人造人間——を夢見てきた。ギリシャ神話では、キプロス島の王ピュグマリオンが理想の女性の彫像に恋し、その様子を哀れんだ女神アフロディーテが彫像に生命を与える。また、鍛冶の神ヘパイストスは、クレタ島を守る青銅製の自動人形タロスを制作した。

自動人形への情熱は連綿と続き、18世紀欧州では時計産業の発達と並行して、歯車やカムを使って人を含む生き物の動きを精密に再現する自動人形(オートマタ)が作られるようになる。本邦でも茶運人形などの精巧なからくり人形が制作されたのは皆さんご存知の通りだ。1886年、フランスの劇作家ヴィリエ・ド・リラダンが小説「未来のイヴ」に、理想の人造人間ハダリーを登場させ、同時に人造人間という概念に「アンドロイド」という呼称を使用。1920年にチェコの劇作家カレル・チャペックが戯曲「R.U.R」で人に代わって労働を担う人造人間に「ロボット」という名称を与える。ロボットの概念は、アメリカのSF作家アイザック・アシモフが1940年代から50年代にかけて大きく拡張した。アシモフの記念碑的短編集「われはロボット」は1950年に出版されている。

ロボットはロケット推進よりもはるかに複雑な技術的課題だったので、実現は遅々としたものだった。腕を動かすにせよ脚で歩行するにせよ、外界の状況を認識するセンサー、センサーの入力に対応した出力を決定する制御系、制御系の出力に応じて動作するアクチュエーターと最低3段階の技術が必要となる。しかもそれらは状況の変化にリアルタイムで反応する必要があり、そのためには行動を決定する人工知能が必要だ。

単純な反復動作を行う産業用ロボットの試作が始まったのは1950年代、実用化は1960年代に入ってからだった。一般的な工場の生産現場に産業用ロボットの普及が始まるのは、さらに10年を経た1970年代のことである。

ロボットや人工知能の成長を支えた半導体技術の発達

また、現在につながる人工知能の研究は1950年代に始まった。1956年、アメリカのダートマス大学で研究者達が2ヶ月もの長丁場のミーティングを持つ。この通称「ダードマス会議」と呼ばれるミーティングで、初めて人工知能(Artificial Intelligence)という用語が使用された。脳の神経細胞を模擬したニューラル・ネットワークと、ニューラル・ネットワークに学習させるバック・プロパゲーションをはじめとしたアルゴリズムは1980年代までにほぼ出来上がったが、それを具体的な人工知能に組み上げ、一部分であっても人間に匹敵する出力を得られるようになるには、2010年代に入ってからだった。

センサー入力に伴うアクチュエーターの制御も、実用的な人工知能の実現も、技術的な下支えとなったのは、ムーアの法則に従って指数関数的進歩をした半導体だ。半導体技術は、大容量のデータを蓄え、高速に計算を可能にした。が、それだけでなく、受光素子や加速度・角速度を検出する半導体センサー、さらには半導体レーザーが発するレーザー光線を使うライダー(レーザー・レーダー)のように、センサー技術にも使われている。

人類が有人宇宙飛行に乗り出すことになった「60年」の差

ロケット推進とロボットの技術の進歩を並べると、ロケット推進がおおよそ60〜80年程先行していることが分かる。1930年代から60年代にロケット技術で起きた長足の進歩が、今、ロボットや人工知能技術で起きているというわけだ。

私は実のところ、この60年の差こそが、人類が有人宇宙飛行に乗り出すにあたっての決定的要因だったのではないか、と考えている。ロケット技術が人ひとりとその生命を維持し、無事に帰還させるだけのシステムの総質量を、ひとまとめにして宇宙空間に打ち上げることが可能になった1950年代——宇宙を知るには人が行く以外の手段はなかった。実際に人が赴き、体験するしか方法はなかったのである。

しかしガガーリンの初飛行から60年以上を経た今日、人類は自らと同等の能力を持ち、調査する能力を持つ機械を手にしつつある。

1950年代の段階で、人類が自分達と同等の能力を持つロボットを手にしていたら、あるいは大型ロケットの開発が2020年代まで遅れていたならば、果たして人類は有人宇宙活動に乗り出していただろうか。少なくとも国が行う宇宙開発では「そんな危ないことに国家予算を支出するわけにはいかない。ロボットで行うべき」となっていたのではないだろうか。

人間は冒険を好む生き物なので、いずれは「俺が行きたいから行くんだ」と民間から有人宇宙活動は始まっていただろう。しかし、それは現実の歴史と比べてかなり遅れることになったであろう。

宇宙探査の手段として発展する、無人の宇宙旅行

世界初の人工衛星スプートニク1号から、すでに「無人の宇宙旅行」の萌芽は見て取ることができる。同衛星は20MHzと40MHzの電波で断続的にビープ音のパルスを発信する仕組みになっていた。この電波を地上で受信してドップラー変位を測定することで、衛星の入っている軌道を計算することができる。それとは別に、ビープ音はごく簡単にではあるが、衛星内の温度と圧力の変化を送信することができた。スプートニク1号の内部は1.3気圧の空気で満たされていた。その温度が50℃以上、または0℃以下になった場合。または圧力0.35気圧を下回った場合に、ビープ音のパルスの長さが変化して地上に異常を伝えるのである。つまりスプートニク1号は、自らの状態が健全かどうかを地上に送信する機能を持っていた。

スプートニク1号の打ち上げにショックを受けたアメリカは、自らも衛星打ち上げを急いだ。何度もの失敗の末、1958年1月31日、アメリカ初の人工衛星「エクスプローラー1号」が打ち上げられる。同衛星は、スプートニク1号にはない機能を持っていた。周辺の宇宙空間の放射線量を計測するガイガーカウンターを搭載しており、測定結果を地上に送信することができたのである。

衛星そのものの状態を地上に伝える。そして衛星周辺の状況を地上に伝える——ほんのささやかな機能だったが、これらは後に、有人宇宙活動とならぶ宇宙探査の手段として大きく発展していくのである。

参照リンク
有人宇宙飛行の歴史(JAXA|宇宙航空研究開発機構) 
ロボットの歴史(一般財団法人 日本玩具文化財団)
人工知能の話題: ダートマス会議
Sputnik design
Stories of Missions Past: Early Explorers | NASA