久野愛

久野愛

(写真:Alena Ozerova / shutterstock

日常は、未知のものに感覚を解放する可能性を秘めている

日常とは、変わることなくそこにあるものだと思うかもしれない。しかし、感覚史を紐解いてきた久野愛氏によれば、それはドラマチックに変化するもののようである。日常は常に新しい必然性をつくりだしている。

Updated by Ai Hisano on August, 29, 2023, 5:00 am JST

「日常とは何か」を考えれば考えるほど、その実態は思考の隙間をすり抜けていく

 日常とは発見することがもっとも困難なものである。
 モーリス・ブランショ(1962=2017)

「日常」とはなんだろうか。毎日の凡庸な生活やルーティンなど、私たちが普段慣れ親しんだ生活を思い浮かべるのではないだろうか。一方でそんな変わり映えのしない平凡な日々も、一日として全く同じ日であることはない。ならば日常を日常たらしめているのは何なのだろう。同様の問いは、例えば「日用品」にも当てはまる。「日常生活に必要な消費財」というのが一般的な定義であるが、日常生活に必要と言っても、当然ながら誰にとって必要なのか、さらには国や文化、時代によっても必要なモノは異なる。こう考えると、何の変哲もない日常を定義することや、それを取り巻くモノや行動が、実は非常に複雑なものにみえてくる。

冒頭で引用したフランス人作家で哲学者のモーリス・ブランショは、日常に関する論考で以下のような問いかけをしている。

何も起こらないということこそが日常なのである。しかし、こうした不動の動きの意味とはどのようなものだろうか。この「何も起こらないということ」はいかなる水準に位置づけられるのだろうか。私にとってつねに必ず何かが起こっているというのに、誰にとって「何も起こらないのだろうか」。換言すれば、日常の「誰?」とはいかなるものだろうか。また同時に、この「何も起こらないということ」のなかには、なぜ、本質的な何かが生じうるという主張が含まれるのだろうか。

ブランショが「日常は逃れ去る」と述べるように、「日常とは何か」を具体的に考えれば考えるほど、その実態は思考の隙間をすり抜けていく。日常は「つねにすでに現に存在する」のだが、それは日常がアクチュアルなものであることを意味しない。ブランショの言葉を借りれば、日常は「まさにその実現した状態においてつねに実現しないまま」であり、「私たちがつねにすでに接近している接近しえないもの」という両義性のうちにあるのだ。

日常はいつもコンベンションを破り、新しい必然性を造り出している

ブランショに大きな影響を与えたアンリ・ルフェーヴルも、「もっとも卑近なものはもっとも未知—神秘ではない—に富んでいる」と述べ、日常を「うまく定義できない、不定形の巨大な塊」と表している。同時にルフェーヴルは、日常生活が消費活動の場として組織化されていく中で、近代化における日常生活を「疎外(alienation)」されたものとして捉える。資本主義システムの中で個人の生活は「個人主義的傾向に慣らされ」、日常生活が「私生活」(私有する生活)と同義となる。私有財産が疎外の根源であるように、日常生活は「《奪われた(私的な)》生活、現実と世界とのつながりを奪われた生活—人間的な一切のものと無縁な生活」となるのである。ルフェーヴルにとって日常は、生産と消費プロセスとが結びつき再編成されるループの中に取り込まれているのだ。つまりルフェーヴル(そしてブランショ)は、資本主義による搾取と疎外が、工場の中だけで起こるのではなく、より広い領域で作用するものだと措定する。

日用品を含め消費財が溢れる今日の日常は、ルフェーヴルが述べるように、疎外、そしてフェティシズムや物象化と無関係ではない。そしてだからこそ、日常はある種の可能性を秘めているといえるかもしれない。戸坂潤によれば、日常生活の特徴は、毎日「一定の生活条件の下に、感受し反省し計画し実行するというサイクルを反復」することだという。だがそれは、単に同じことの平凡な繰り返しではない。日常生活は、「コンベンションや歴史の『必然性』などにそのまま追随」しているのではなく、「いつもコンベンションを破り新しい必然性を造り出して行くことによってのみ事実保たれている」のだ。換言すれば、ハリー・ハルトゥーニアンが「日常性とは、不穏の形式であり、宙吊りにされた瞬間」、すなわち「伝統を暴力的に中断し、過去の描く流れや運動を宙吊りにする『歴史的状況』」だと述べるように、世界が中断し、ずらされるまさにそれこそが日常であるともいえるだろう。つまり、ある種当たり前のこととして反復しているように思えるものと、その反復を中断させ、戸坂の言葉を借りれば「新しい必然性」を作り出すものという、二つの相入れないものが錯綜する場が日常であるともいえる(ここでは、前者の場合には「日常性」という言葉を使いたい)。