久野愛

久野愛

(写真:Alena Ozerova / shutterstock

日常は、未知のものに感覚を解放する可能性を秘めている

日常とは、変わることなくそこにあるものだと思うかもしれない。しかし、感覚史を紐解いてきた久野愛氏によれば、それはドラマチックに変化するもののようである。日常は常に新しい必然性をつくりだしている。

Updated by Ai Hisano on August, 29, 2023, 5:00 am JST

新しい感覚をもたらす「素材」

デザインの感覚的要因を左右するものの一つに「素材」がある。例えばアルミニウムやプラスチックといった素材は、木材や紙で作られた製品とは全く異なる新しい触感を提供した。このように新しい感覚体験を生み出しうる素材は、デザイナーにとって大きな可能性を秘めている。20世紀半ば、ウォランスは、「これほど可能性の幅が広がった素材は他にない」として、プラスチックを高く評価している。プラスチック素材は「滑らかで温かみのある手触りで、手になじみやすい形に成形しやすい」、さらにこうした「触感の良さ」に加えて、「熱、水、化学薬品に対する耐性」があることも評価された。色彩のバリエーションやピカピカした見た目もプラスチックの特徴で、ウォランスによれば「パレットのほぼ全ての色を、鮮やかに、あらゆる透明度で作ることができた」のだ。プラスチックは多くの商品で利用されるようになり、1940年から1945年にかけて、アメリカ国内の年間生産量は3倍近くに増加した。1947年、家庭向けインテリア雑誌の『ハウス・ビューティフル』誌は、プラスチック製品の特集を組んだ際、安価でありながら美的に優れたこれらの商品を「39セントのファイン・アート」と呼び、同誌編集者のエリザベス・ゴードンは、「翡翠のような指触りの良さ」だと賞賛した。街の中にも家庭内にもプラスチック製品が溢れ、「プラスチック」という言葉も一般的に使われるようになったことで、プラスチックは日常性を獲得したといえる。

プラスチックは日常に取り込まれ、さらに別の評価を獲得した

しかし、1960年代になると、プラスチックが持つイメージは大きく変化することとなる。1940年代、デザインに未曾有の可能性をもたらすと思われていたプラスチックの感覚的要素が、ネガティブなイメージ持つようになったのだ。1957年、ロラン・バルトは、著書『現代社会の神話』の中で、プラスチックが発する音は「空虚であると同時に単調」であり、その「化学的な色」は無駄なものを連想させると批判した。これは環境問題への意識の高まりや大量消費社会への懐疑的態度が広まる中で、プラスチックは、モダンで便利な無限の創造性を想起させるイメージから、無駄や物質主義と結びつけられるようになったためである。そうした社会的・文化的変化の中で、それまで生活の一部となっていたプラスチック、その色や触り心地、音がマイナスの感情を喚起するようになったことは、まさに人々の感性の変化、つまりエステティクスの変化により日常なるものが置き換わったことを示している。ここで、この感性(エステティクス)とは、単にプラスチックがもたらす感覚的・感情的認識を指すだけではなく、環境問題や消費主義社会といった、社会的そして時に政治的な諸相に対するものも意味している。

ピーター=ポール・フェルベークが「物質的媒介」と呼ぶように、(広義の)デザインは、解釈レベルだけでなく、感覚レベルで人とモノとを媒介し、特定の社会的枠組みの中でそれらの関係を作り出す。デザインは、多くの人々にとってそれまで馴染みのなかった新素材や新技術を飼い慣らす(ドメスケイト)ことで、新たな消費財を人々の生活の中に組み込み日常的なモノへと再編成する。つまりデザインは、人々に対して新しい社会規範や科学技術、そしてより一般的にはその時代の雰囲気に、感覚的・感情的なレベルで迫ると同時に、人々によって理解され、やがてはありふれたものとして日常化されていくのである。一方で、プラスチックの例が示すように、時代の変化とともに新たなエステティクスが醸成されることで、感覚体験とそれを通したモノの認識が変化し、日常がつくられもするのである。

日常を観察することで見える、歴史的な時間の流れ

戸坂潤は、風俗に関する論考の中で次のように述べる。「ファッションやモードと云っても、それはただの伊達ごとではなくて、それとなく、時代やジェネレーションや又社会階級の、世界観を象徴しているもの」である。だからこそ「世の中の風俗の褶や歪みや蠢きから、時代の夫々の思想の呼吸と動きとを、敏感に抽出することも出来る」のだ。デザインも同様である。そして、これらファッションやデザインは、時代を反映するとともに、人々の生活に深く根差したものであるからこそ、コンベンションが壊され日常がつくられるその契機を見つける手がかりにもなりうるといえるだろう。

さらに、日常なるものを考える上で重要なのは、時間のあり方である。日常は、私たちが生きる「いま」という瞬間、現在性を示すものでありながら、同時に日常性の反復を伴う時間のまとまり、すなわち歴史的時間の流れでもある。「いま」を過去と対比し、ある意味で現在を歴史化することによってしか、日常であることを認識できないからだ。そしてこの日常がいかに作られてきたのか、つまり、あるモノや行為がいかに日常となるのかを明らかにすることは、ある特定の歴史的文脈において世界の中断がなぜ・どのように起きるのか、そして既存秩序の宙吊りが、誰に・いかなる形で影響を及ぼすのかを考えるヒントとなるだろう。「日常は逃げ去る」ものかもしれないが、誰も日常から逃れることはできない。日常は常に既にあるのだ。そして、ブランショが言うように「接近しえない」かもしれない日常において、それでも人々の何かしらのアクチュアルな体験を掬い出し、日常を歴史的な時間の流れの中に位置づけるための一つの足がかりとして、エステティクスの可能性をみてみたいと思うのだ。

参考文献
戸坂潤全集 第三巻』戸坂潤(勁草書房 1966年)
戸坂潤全集 第四巻』戸坂潤(勁草書房 1966年)
現代社会の神話』ロラン・バルト 下澤和義訳、石川美子監修(みすず書房 2005年[1957年])
歴史の不穏—近代、文化的実践、日常生活という問題』ハリー・ハルトゥーニアン 樹本健訳(こぶし書房 2011年)
「日常の言葉」『終わりなき対話 II 限界―経験』モーリス・ブランショ 湯浅博雄・岩野卓司・上田和彦・大森晋輔・西山達也・西山 雄二訳(筑摩書房 2017年)
『感性的なもののパルタージュ』ジャック・ランシエール 梶田裕訳(法政大学出版局 2009年)
『日常生活批判 序論』H・ルフェーブル 田中仁彦訳(現代思想社 1968年[1947年])
『日常生活批判 1』H・ルフェーブル 奥山秀美・松原雅典訳(現代思想社 1969年[1947年])
Highmore, Ben. Ordinary Things: Studies in the Everyday. Routledge, 2011.
Lefebvre, Henri, and Christine Levich. “The Everyday and Everydayness.” Yale French Studies no. 73 Everyday Life (1987): 7–11.
Lippincott, J. Gordon. Design for Business. Paul Theobald, 1947.
Saito, Yuriko. Everyday Aesthetics. Oxford University Press, 2007.
Verbeek, Peter-Paul. What Things Do: Philosophical Reflections on Technology, Agency, and Design. Trans. by Robert P. Crease. Pennsylvania State University Press, 2005.
Wallance, Donald. Shaping America’s Products. Reinhold, 1956.