森本 裕子

森本 裕子

(写真:Martyshova Maria / shutterstock

長時間、一人で、偶発的に。高く評価されるアートの作り方

ときに不合理な働きをする人の心を蓄積された研究結果から読み解きます。今回は、専門家の目をも眩ませる、高く評価されるアートの作り方を紹介します。

Updated by Yuko Morimoto on October, 3, 2023, 5:00 am JST

時間をかけて作られたものは「芸術的」

お恥ずかしい話をしましょう。私はいまだにサグラダファミリアがなんなのかよくわかっていません。いえ、教会だろうということは知っています。それで、たしか何世紀もかけて作られているはずです。でも、外見がどんなふうなのか、内装がどんな感じなのか、ほとんど知らないのです(尖った塔がいくつかあったような気はします)。その一方で、サグラダファミリアは非常に歴史的価値の高い建築物だとは思っています。ろくに見たこともないのに、その建物の歴史的価値だけはわかる。なんなのでしょうかこれは。

長時間をかけて作られたものは短時間で作られたものより価値が高いとみなされる、という現象をイリノイ大学のクルーガー氏らが報告したのは、2004年のことでした※1。「努力=価値」現象と呼んでもいいかもしれません。

おそらく私は「こんなに長い間かけて、多くの人の努力のもとに作られているのだから、サグラダファミリアは価値が高いに違いない」と推測しているのでしょう。建物の価値は、見た目の美しさや造りの精巧さ、長持ちするかどうかや使い勝手、そんなふうな観点から評価されるべきだと思いながらも、価値とは無関係なはずの「建築にかかる時間」で、歴史的価値を評価してしまっているわけです。

プロの批評家ですら、努力の大きさをアートの評価に組み込む

クルーガー氏は研究の中で、参加者に詩や絵画を見せました。現代詩人のマイケル・ヴァン・ワレヘンの書いた詩を、完成までに4時間かかったという触れ込みで読んだ参加者は、18時間かかってできたのだと知らされた参加者に比べ、詩の価値を低く評価していました。金額面でも同様に、4時間でできた場合には50ドルでポエム誌に買い取られる価値があるとみなしたのに対し、18時間かけた場合には95ドルの価値があるとみなしていたのです。

これは絵画の評価でも同じでした。4時間で描かれた絵として示されたときには、きっとオークションで1,000ドルで売れるだろうと評価された絵が、26時間かけた場合には1,500ドルで売れると予測されるようになりました。しかも、面白いことに、この「努力=価値」現象は、専門的な教育を受けているはずの、美術学部の大学生、大学院生でも生じたのです。

クルーガー氏は論文の中で、現代美術家であるジャクソンポロック(1912-1956)の作品が、大雑把にまとめると「自分にも簡単に描けそうだ」という理由で批判されたのに対し、擁護者が「いやいや、彼の作品は単に絵の具を垂らしただけに見えるけど、実はゆっくり慎重に労力をかけて、想像よりずっと長い時間を費やして描かれているんだ」という観点から反論していたことを指摘しています。

素人考えですが、時間がかかったかどうかは、アートの芸術性そのものには影響しないはずです。長時間をかけて作られた駄作だってたくさんあるでしょう。しかし、美術学部の学生や院生も、さらにはプロの批評家ですら、努力の大きさをアートの芸術性評価に組み込んでいる(いた)のです。サグラダファミリアの価値を建築時間の長さから判断する素人がいても仕方がないですよね。

高評価を得るためには、みんなでよりも一人で

ちなみに、時間がかかっていたらいつでもとにかくいい作品だと思われるかというとそうでもないようで、同じ時間かけられたアートであっても、一人で作ったと聞いた場合の方が、複数人で協力して作ったと聞いた場合よりも高く評価されるという研究結果が報告されています※2。

このとき使われたアートの一つは、タラ・ドノヴァンの「無題(Untitled; Plastic Cups)」です。膨大なプラスチックコップを積み重ねたこの作品は、1人で作ったとされた場合に比べ、複数人で作ったとされた場合には、2人、3人、5人と人数が増えるにつれ、そのクオリティが低いと評価されるようになっていきました。

この研究で面白いのは、実際に複数人でアート(詩)を作らせてみているところです。一人で作った詩と複数人で作った詩の間には、特にそのクオリティに差はありませんでした。つまり、実際には複数人で作ったアートの質が低いわけではないのに、なぜかみんな、多くの人間が関わったと知っただけで、評価を下げてしまうのですね。

偶然できた作品は価値が高い

「努力=価値」現象とはむしろ反対に「そうするつもりはなかったんだけど偶然できた」という作品も評価が高くなることが示されています。同じ詩を読んだ場合でも、「自分の考えを書き留めていた言葉の羅列が偶然詩になっていたんです」と聞いた人は、「詩を書こうと思って書き溜めていた言葉から詩ができたんです」と聞いた人よりも、詩のクオリティが高いと評価するというのです※3。

なお、この効果はアートに限らず、「エンジニアが娘の宿題を手伝っていたら偶然ものすごく座り心地のいい椅子ができた」という場合にも「いい椅子を作ろうと思って娘の宿題を手伝っていた」という場合に比べ、その椅子に対して高い値段を払ってもよいと考える傾向が示されています。となると、なにか商品を売るときには偶然性を強調した方がいいのかもしれません。

作品は、大変な労力のかかったものであってほしい。しかも大勢ではなく一人の労力によって作られていてほしい。さらにできれば偶然性もあってほしい。アートは、作品の持つ芸術性だけではなく「どのように制作されたのか」によっても評価されているのがわかります。

アーティストにはエキセントリックであってほしい

最後にもう一つ、アートの価値を上げる方法をご紹介しましょう。それは、作品を作ったアーティストがエキセントリックであること。たとえば、ゴッホが自らの耳を切り落としたとされているというエピソードを聞かされただけで、ゴッホの描いた「ひまわり」に対する評価が高くなるそうです※4。

これは有名なアーティストに限らず、架空のアーティストでも同様で、そのアーティストが普通の服を着ているよりも、奇抜な服装をしている方が、制作したアートの評価が上がるというのです。たしかに、アーティストは奇抜な服を着ている気がしますが、あれにはそんな効果があったのですね。

ただし、あえてエキセントリックにしていると思われると効果は失われてしまいます。研究の中で、レディ・ガガがエキセントリックな服装をしている写真を見た参加者は、レディ・ガガの音楽も、彼女の音楽的スキルも高く評価していました。ここまでは、だいたい上で述べた結果と同じです。ところが、「音楽評論家の中には、レディ・ガガの見た目やイメージは、現代のポップミュージックの中でも最も激しくマーケティングされ、戦略的に考え抜かれたもののひとつだと言う人もいる」と聞かされると、この効果は消えてしまいました。

エキセントリックであってほしい。でも、マーケティングのためではなく、純粋な心から変な服を着ていてほしい。アーティストは大変です。しかしどうなんでしょう。世界がエキセントリックなアーティストばかりになったとしたら、「実は会社員として真面目な服装で働きながらアート活動も行っています」という方が奇抜に思えてきたりもするのでしょうか。今後の研究が楽しみです。

参考文献
※1. Kruger, J. , Wirtz, D. , Van Boven, L. & Altermatt, T. W. The effort heuristic. J. Exp. Soc. Psychol. 40, 91–98 (2004).
※2. Smith, R. K. & Newman, G. E. When multiple creators are worse than one: The bias toward single authors in the evaluation of art. Psychology of Aesthetics, Creativity、 and the Arts 8, 303–310 (2014).
※3. Fulmer, A. G. & Reich, T. Unintentional Inception: When a Premium Is Offered to Unintentional Creations. Pers. Soc. Psychol. Bull. 49, 152–164 (2023).
※4. Van Tilburg, W. A. P. & Igou, E. R. From Van Gogh to Lady Gaga: Artist eccentricity increases perceived artistic skill and art appreciation. Eur. J. Soc. Psychol. 44, 93–103 (2014).