村上陽一郎

村上陽一郎

1976年10月、パキスタンのペシャワル。当時は静かで落ち着いた街であった。

不確実さこそ、人の世の塩である

前回、村上陽一郎氏は近代において人類が進歩しつづけている面について語った。しかし、角度を変えてみるとやはり人類は進歩しつづけているとは言い難い面もある。今回は進歩が招いた新たな衰退の可能性や、一直線上にはなかった進歩について紹介してもらう。

Updated by Yoichiro Murakami on December, 20, 2021, 9:00 am JST

カウンターカルチャーはただの敗北に終わったわけではない

特殊な例ではあるが、「アーミッシュ」と呼ばれるある種の信仰者たちは、自動車さえ使わずに自分たちの村の伝統を守っている。そのような生活の多様性をどこまで許容するかを考えるとき、カウンターカルチャーのようなものは未だ息づいているのかもしれない。そういう意味ではカウンターカルチャーは完全に敗北したわけではないだろう。現に、盛んに行われるLGBTへの差別反対運動はそこから生まれてきている。アメリカでも、過去には東海岸ではなかなか同性愛者であることをカミングアウトできなくても、西海岸に行けばヒッピー仲間にはカミングアウトがそれほど難しくない状況が確かにあった。

だから「みんなが選んでいるから正しい」と考えるのは誤りであるといえる。民主主義は多数決で決まったことが正しいとされる制度である、かのように錯覚される向きがあるが、世界の歴史が、その考えが根本的に誤っていることを示している。科学の歴史もみんなが「こうだ!」と思い込んだときに、「待てよ」と言って別の道をたどった人が見事な成果を上げた実例はいくらでもある。Brand New-ismとはそのようなところから生まれてきている。

みんなが地球は平たいと言っていたときに、「地球は丸い」という人がいたこともそうだ。古代中国でも古代インドでも地球は平たいことが常識だったが、古代ギリシャだけが「地球は丸い」いう主張が説得的だった。
みんながある道を信じているときに、そうでない道があることを言い立ててみる人たちがいる。その中にはもちろん間違いも多く含まれるし、何も評価されず消えていくこともある。現在の位置というのは、「どちらかと言えば正しい」と掬い上げられたものによってできているのだ。

選ばなかった道が発展することもある

ダーウィンが「種の起源」を書いたときに、種の進化を大きな一本の木に譬えた。幹から少しずつ枝わかれして進化していく様子がよくわかる。それを見てみると、枝がわかれたときに右をたどった生き物はみんな死んでしまっても、左へ行った生き物は環境に合ってたから生き延びたということがわかる。地球は右へ行った生き物の死体が累々と地表を埋めているという。

だから我々が生き残っているのは、その途中で絶滅した種が多数あるおかげなのかもしれない。みんなはこの道を辿ったけれど、そうじゃない方を選んでみたら、少しは見込みがあるという状況が繰り返されて今の生物たちがいる。トーマス・クーンが使ったパラダイムという概念は、枝わかれするときに大多数とは異なる道を行ったことの、彼流の表現だったのかもしれない。道の方向性の違いは「パラダイムの転換」ととってもいいだろう。進化という概念はよく進歩と同一視されるが、決して同じではない。

アメリカ、かつての金鉱山
アメリカ、かつての金鉱山。トロッコ線跡が見える。

ヨーロッパ語で「進化」と言うときは、evolutionという言葉を用いる。progressとは言わない。evolutionはラテン語のevolvereという動詞からきており、evolvereとは巻物のような書物を広げるという意味だ。早くから紙を発明した中国を除けば、昔の書物はみんな羊皮紙や木簡をつかった巻物で、それらはくるくると転がして広げた。volveが転がす、それに外などを指すeがつくわけだからevolveは、本来、進化というよりは展開というイメージなのだろう。右へ行くものもいれば、左へ寄っていくものもいる。あっちにもこっちにも開かれているのが進化だ。往々誤解をされるが、そこには本来進歩という意味は含まれていない。

やや話がそれるが、軟体動物に開けていった生き物のタコは非常に頭がいいそうだ。生物学者の中には「人間より頭がいいんじゃないか」と言う人さえいる。例えばたった一回の経験を、きちんと記憶して行動する、というような実験結果がある。タコの入った水槽の底に、金属の小板を置き、それに弱い電流が流れるようにしておく。タコがその金属の上に乗った瞬間に電流を流すとすると、即座に逃げたタコは二度とその鉄板の上には乗らない。軟体動物はホモサピエンスとは異なる方向へ、見事な進化をした例の一つだろう。