佐藤 卓己

佐藤 卓己

ニューヨークの本屋の前で立ち読みする人。手にしているのは『The Village Voice』という当時非常に人気のあったカルチャー誌。政治から文学、演劇まで幅広く報じていた。後ろに見える「松栄」は日本料理店。

「読むこと」と「書くこと」が分断した
メディア環境の教育像

情報は「見ること」や「聞くこと」でも摂取できるが、思考の多くは「読むこと」や「書くことに」によって支えられている。タブレット端末等が教育現場に導入されると、これらの能力にはどのような影響が出るのだろうか。そのとき、メディアは果たして教材になりうるのか。メディア論を専門とする歴史学者・佐藤卓己氏に聞いた。

Updated by Takumi Sato on December, 27, 2021, 9:00 am JST

一通りではない「読む」という行為

メディアと接することは時間を使う。我々がメディアに接する時間は、睡眠や仕事の時間を差し引けば、平日は最大7時間ほどだろう。多めに見積もると1日の3分の1にあたる。
しかしメディアから発せられるものを受け取る姿勢は多様で、受け手は常に画面や誌面を凝視しているわけではない。「見る」や「読む」という行為には複数の種類があり、そこにはじっと見るgazeも何気なく見るbrowseも含まれる。多くの人は何かをしながら情報を受容しているのだ。さらに複数のメディアを同時に視聴するということもそれほど珍しくない。本を読みながらテレビやラジオをつけていることは頻繁にあるし、書斎でパソコンの画面を開いたまま新聞を読むこともある。

情報の送り手であるマスメディアはあまりそれを意識せずにコンテンツを作っている。さらに教育の現場では、NIE(Newspaper in Education)のような新聞を使った教育実践、あるいはテレビ番組を委員が真面目に見てコメントしたり批評したりする番組審議会のような、あまり普通ではない真剣な接し方が標準的だと想定されている。

メディア論の名著30』の30冊目でも書いたように、国語教育で教わるような読み方は現実的には極めて特殊な読書だ。学校ではわからない意味がほとんどないようになるまで辞書で調べて、文章を最後まで読み通して意味をとるように教育される。大学入試の現代文も基本的にはその規範の中で出題されている。外国語の初級レベルではそのような読書をせざるを得ないが、日常的には辞書引きながら本を読むという行為はほとんどない。だとすれば、そういう特殊な状況を読書の規範とするような教育のあり方は問題ではないのか。日常生活と教育現場で極端な隔たりがある読書法は、あまり有用でないのかもしれない。