佐藤 卓己

佐藤 卓己

ニューヨークの本屋の前で立ち読みする人。手にしているのは『The Village Voice』という当時非常に人気のあったカルチャー誌。政治から文学、演劇まで幅広く報じていた。後ろに見える「松栄」は日本料理店。

「読むこと」と「書くこと」が分断した
メディア環境の教育像

情報は「見ること」や「聞くこと」でも摂取できるが、思考の多くは「読むこと」や「書くことに」によって支えられている。タブレット端末等が教育現場に導入されると、これらの能力にはどのような影響が出るのだろうか。そのとき、メディアは果たして教材になりうるのか。メディア論を専門とする歴史学者・佐藤卓己氏に聞いた。

Updated by Takumi Sato on December, 27, 2021, 9:00 am JST

新聞紙がビジネスとして成立するとすれば教養メディア

度々「日本人は自分の頭で考えることをしない」という声を耳にすることがある。だが、考えるためには時間的にも心理的にも余裕が必要だ。今の日本社会にはなかなかそのような余裕のある人は少ない。そこを国際的な比較として議論するのであれば、経済活動や生活のレベルなどを全体的に検討する必要が出てくる。
よく引き合いに出されるのは日本の大手新聞社の発行する記事内容と、ヨーロッパの高級新聞のそれとの質の差だ。確かにイギリスのThe TimesやドイツのFrankfurter Allgemeineなどのヨーロッパの朝刊紙には知的で高度な議論をうながすような学術風の記事もあるが、日本の新聞にはそれはない。しかしそもそも朝日新聞にしても読売新聞にしても発行部数がそれらの新聞とは1桁違うわけで、少数エリートのためには売られていない。だから高度な議論ができるような新聞を作りたければ、少数者が買って読むためのメディアがビジネスとしてどのように成り立つのかを考えなくてはならない。

1969年のニューヨーク、日曜日の新聞販売店の様子
1969年のニューヨーク、日曜日の新聞販売店の様子。当時、ニューヨークタイムズの日曜版は厚さが数センチもあり、通常の新聞販売店では新聞が山のように積み上げられていた。

そのためには、教育も変わらなくてはならないだろう。「どうしても良質な新聞が必要だ」と考えるのならば、「教養メディア」あるいは「知的生活の教科書」というパッケージで新聞を発行するといった発想が必要かもしれない。

そのような意味では、今後メディア産業では教育ビジネスの展開が非常に大きな可能性を秘めているのではないか。さらに言えば『テレビ的教養』にも書いた通り、家電メーカーなどもかつてのように教育ビジネスに参入してくるのかもしれない。ソニーの成長は学校の教室にテープレコーダーを売り込むことで始まった。その他の日本の家電産業も学校放送用のテレビ受信機を量産して国内マーケットを確保して発展の基礎としたわけだから、そうした形で教育が一つのビジネスの柱になるということは充分考えられる。

情報ツールが変える「能力」をどう評価するか

現在、学校にタブレット機器が大量にばらまかれようとしている。時流を考えると当然の流れなのだが、これは新たな情報格差を生み出すかもしれない。リテラシーという言葉が示す能力は通常は読み書きに関連するが、タブレットを使った教育では「書く」機会はそれほど多くない。下手をすると「読む」ことに特化するような教育になってしまい、「書く」能力で大きな偏りが生まれるだろう。

かつての放送教育でも小学校の教室にはテレビが導入されたが、中学や高校になると少なくなった。特に進学校の教室にはテレビはあまり入らず、テレビを導入したのは教育困難校が多かった。受験は筆記試験で行われるから、テレビで教育を受けた子どもよりも板書でノートに書き写していた生徒の方が成績がよくなるのは当然だ。
だから筆記試験が続く限り、テレビで授業を受けた生徒は板書で授業を受けた生徒に比べて不利になると考えられた。

しかしここにきてコロナ禍があり、教育空間は大学も含めて大きく変化した。オンラインで講義をするとなれば、教材も電子テクストを送信して学生たちはタブレットにタッチペンなどを使って書き込むことになった。
これまで私の試験は「ノートと教科書は持ち込み可」という条件を課していたが、ついに先日「メモはすべてデータ化しているのですが、タブレットは持ち込み可でしょうか」という問い合わせが来た。私は悩み、タブレットは可としたが、それならパソコンはどうなのかという質問も出てくる。結局は暫定的な措置としていずれも持ち込み可としたが、ネットへの接続だけは切ってもらった。しかし実際のところ、接続の有無をチェックすることはできない。

この話は「試験とは何なのか」という問題にいきつく。さらに言えば、私も今は手で文字をまとめて書くのは年賀状くらいしかないわけで、そのような生活を送りながら学生には、「試験のときだけ鉛筆で答案をつくれ」というのが果たして正しい高等教育なのかというとはなはだ疑問である。今後ありえるのは電子機器類の持ち込みがすべて自由になる状況だ。パソコンを使って自分の答案をつくりあげる能力をチェックする方向にいかざるを得ない。

そもそも大学の学問では答えを出すことより、問いを立てることのほうがはるかに重要だ。だからそのような課題設定能力をどのような形の試験で検証できるかがポイントになってくる。
すでに少数に選り分けられているエリート教育であれば時間をかけた検証もできるが、マスエデュケーションにおいては評価にコストがかかりすぎるため、こうした検証は難しい。

入試は公平性を要求されるものだから、公平に本当の能力を調べる試験をやろうとすると、教員はほとんど入試だけにかかりきりになってしまう。企業とちがって、大学は学生の能力が多少低くても、教育して能力を伸ばせばよいのだから、あまり困ることはない。だから、大学入試への取組はほどほどになる。
一方で、恣意的な要素もある入社試験は学校ほど公平性が要求されない。こちらは本当に能力を備えた人材の獲得が切実だから人事部を置き、十分なコストを割いて実施される。