空間を共にすることの重要性
教育の効果は20年、場合によっては30年ぐらい経たないと測ることはできない。それを追跡調査することは容易にできない。また、30歳で教育達成に関する追跡調査を始めた若手研究者がいるとしよう。しかし、30年後に効果の実証データが揃うころには、その研究者も大学を退職する直前になっているだろう。こんな実証的調査は誰もやりたいとは思わないはずだ。
まして、子供に悪影響があるかもしれない教育方法の実験などできないし、教育論もメディア論と一緒で、結局は歴史的アプローチで考えていく以外の手段がないのなのかもしれない。
結局、教育で大きな影響力を持つのは、教師と学生が同じ場所で時間を過ごすことなのかもしれない。教室で本を読んでディスカッションをするとか、キャンパスの生活時間を共有することの意味は長い目でみると予想外に大きい。
かつてわが師・野田宣雄先生が言っていたことを思い出す。80年代、まだインターネットが出る前に「大学に行かなくても知識や情報が得られる時代は早晩やってくる」と先生は雑誌に書いている(「大学文化のゆくえ」『「歴史の黄昏」の彼方へ』所収)。以前なら大学は図書館が中心で、そこに行かなければわからない知識がたくさんあったが、やがてそのような資料はすべてネット上でアクセスできるようになるだろう。そうすると大学の役割は比叡山や永平寺とかのように修行する施設と同じような形でしか成立しないのかもしれない。そもそもヨーロッパにおける大学の成り立ちは教会に付属した施設として始まったわけだから、ある意味ではこれは原点回帰だ。しかしそうすると大学で学ぶ意味も、知識や技術の習得に終始するものではなく生き方や学問生活のスタイルを体で覚えることになるのかもしれない。それを言語化すれば、世界観や人生観を共有するということになるだろう。
コロナ禍において大学の講義は良質な教育メディアだったか?
コロナ禍で私もオンライン講義を続けてきた。確かに情報を伝達することにおいて、これは便利だし、学生は何度でも繰り返し見ることもできる。メリットはとても多いが、では果たして大学で学ぶことの意義がどこまで達成できたのかというと疑問は残る。
MOOCs(公開オンライン講座)のようなeラーニングも一時期のブームのときほどは聞かなくなっている。そこで知識は得られても、学問のスタイル・オブ・ライフは身につかないからかもしれない。
さらにいえば、まじめに映像を見るという行為はとても疲れる。「オンラインの授業は通常の教室の講義よりも疲労度が高いから、授業時間は短縮してください」と要請されるわけだが、私はほとんど守れなかった。その意味で言えばオーディエンス不在の講義だったのかもしれない。今のところ、オンラインの大学講義は良質な教育メディアにはなっていないようだ。
生身の人間を対象とするため、最も実験をしてはならない現場が教育である。しかしながら、制度を変えるだけで大きく変えられると考えられているのも教育である。だから、教育は最も政治的な改革のおもちゃにされやすい。むしろ、教育の本質は変わらないことが必要である。しかし、変わらないでいるために、自ら変えることも必要なのだろう。
本文中に登場した書籍一覧
『メディア論の名著30』 著 佐藤卓己(ちくま新書 2020年)
『テレビ的教養』 著 佐藤卓己(岩波現代文庫 2019年)
『「歴史の黄昏」の彼方へ』 著 野田宣雄(千倉書房 2021年)