玉木俊明

玉木俊明

カジノで栄えるアメリカ・ラスベガス。自由の女神像のレプリカが設置されているのは、ニューヨーク・ニューヨークホテル。

ピケティが見逃した「金融社会」

格差社会という言葉が浸透しはじめて10年近くが経つ。それ以前にまったく聞かれなかった言葉ではないが、トマ・ピケティの『21世紀の資本』の刊行以来その言葉はますます認知されるようになった。現在、一般的には格差社会は資本主義による富の偏りによって起きると考えられているが、実は視点を変えてみると問題点は今までの認識とは違ったところにあると気づく。データをつぶさにみていた経済史学者が気づいた現代社会の本当の問題とは――。

Updated by Toshiaki Tamaki on January, 24, 2022, 0:05 pm JST

大衆消費社会の誕生

大衆消費社会とは、多くの人々の消費水準が上昇する社会を意味する。より正確にいうなら、多数の人たちが耐久消費財を購入する社会を意味する。大衆消費社会は、まずアメリカで生まれた。アメリカはもともと国土の大きさと比較して労働者数が少なく、労働者の賃金は上昇傾向にあった。

真っ青なスポーツカー
サンフランシスコ郊外。青い自動車はバブルのころに一財産築いた日本人が所有。アメリカ車用の倉庫を借り、大量にコレクションしていた。

1928年代アメリカ合衆国大統領に当選したフーヴァーは、「永遠の繁栄」をうたった。1920年代のアメリカでは、自動車、アイロン・洗濯機・冷蔵庫・ラジオなど家電製品が普及した。これらの耐久消費財をミドルクラスの人々が購入したのである。そうすると所得水準が上昇し、ミドルクラスが増え、所得が比較的平等な社会が誕生し、そのために社会が安定したのである。ただしこの繁栄は長続きせず、1929年の大恐慌の発生により、実際には「かりそめの繁栄」にすぎないことが、明らかになった。
比較的豊かな人々が増えると、その国は安定する。人々が保守的になり、極端な変化は望まなくなるからである。消費社会や大衆消費社会では、それは比較的容易であった。社会は非常に長期間にわたり、そのようにして成長してきたのである。経済成長とは、平等化の過程であった。

アメリカでは、すでに1908年にヘンリ・フォードがT型フォードを販売することにより、モータリゼーションの時代がはじまった。さらにゼネラルモーターズ(GM)は、多数の車種を揃え、所得の上昇に応じて消費者が自動車を買い換えるというシステムを形成するようになった。
戦後世界は、少なくとも先進国においては、社会はこのような仕組みをベースとして形成されるようになった。人々はより多くの耐久消費財を購入するために働き、豊かになった。その結果ミドルクラスの人々が増え、所得水準は平等になっていった。ピケティは、この点を見逃している。そのため、平等な社会から格差社会へと変貌した理由を説明できていないのである。

金融社会の生成

1973年に第一次石油危機が、1978〜79年に第二次石油危機が勃発すると、世界経済は大きな転換を余儀なくされた。ちょうどその頃に出現したのが、ネオリベラリズムという考え方である。それは、できるだけ多くの経済活動を市場にまかせ、小さな政府を目指すという考え方であり、それまで国営企業を増やしていた西欧の政策とは正反対のものであった。賃金の格差は、能力の格差ということで正当化された。世界経済のウェイトは、製造業から金融業へと、明らかにシフトしていった。その中心となったのが、アメリカとイギリスであった。すなわち、アングロサクソンが、この方面でイニシアティヴを握ることとなったのである。

イギリスには、現在これといった製造業はない。一番活発なのは、金融業である。2013年の時点で、イギリスは、アメリカに次いで、世界第2位の直接投資国であった。イギリスの直接投資額は1兆8,850億ドルであり、それに対しアメリカの直接投資額は、6兆3,500億ドルなので、イギリスの直接投資額は、アメリカのたった30%でしかない。けれども、国民経済に占める比率の点では、イギリスの方が多い。ロンドンの金融街のシティは、ニューヨークの金融街であるウォール街以上に、外国に開放されているといえよう。
しかも、タックスヘイブンの代名詞ともいえ、カリブ海に位置するケイマン島、さらにはイギリス領ヴァージン諸島がエリザベス2世を君主とする自治領である。カリブ海の島々の一部は、砂糖の生産地からタックスヘイヴンへと変貌した。それは、かつてイギリスの植民地だったからである。

OECD租税委員会の調査によれば世界のタックスヘイブンリストのある地域のうち、22がイギリスに関係している。これは、大英帝国が世界中に植民地もっていた遺産である。イギリスの金融のノウハウは、現代社会のマネーロンダリング活かされているのである。大英帝国は、金融の帝国から、マネーローンダリングの帝国へと変貌したのだ。

イギリスは、18世紀後半に産業革命を経験し、19世紀には「世界の工場」になった。しかし、19世紀末から20世紀初頭にかけて、工業生産額は重化学工業を中心とする第二次産業革命を経験したアメリカやドイツに遅れをとることになった。
それに対しイギリスは、金融業や海運業に経済の重点を移すことで、経済成長を実現した。世界中にイギリス製の電信が敷設され、ロンドンが世界の貿易決済の中心となった。すなわち、世界経済が成長し、貿易額が増えるほど、イギリスには巨額の手数料が流れ込むことになったのである。これこそ、イギリス経済の強みであった。