松村秀一

松村秀一

2020年12月撮影。三鷹市や調布市にまたがる野川公園。早朝、朝靄の中で活動する人々。

(写真:佐藤秀明

建築と都市の危うい基層。ものづくり人はどこへ行ったのか

「日本はものづくりの国だ」。私たちは長きにわたりそう教えられてきたし、そう思っていた。しかしその足元が崩れようとしている。日本の文化の根幹をなす職業の人々の現状を知ることで、理想の未来を考えるヒントを得てみようではないか。

Updated by Shuichi Matsumura on February, 7, 2022, 9:00 am JST

ものづくり人はどこから来たのか

現代に繋がる大工等のものづくり人の起源について語るのに、渡辺は原始から古代への飛躍を可能にしたのは何かという問いから始める。

読者の皆様もよくご存じの法隆寺や唐招提寺に代表される古代の建築群は、それ以前の登呂遺跡に見られる住居や倉庫といった原始の建築と比較すると、より高度な技術を駆使してつくられたものだという印象を与える。しかし、渡辺は次のように言う。法隆寺金堂の構造体をつくるために必要とした木工技術にせよ、基壇や礎石を築くのに必要であった石工技術や塔の相輪の鋳造技術、彫金技術にせよ、瓦をつくるために必要であった高温度焼成の技術にせよ、すべて原始末期に準備されていたものに依存できる性格の技術だった。古代建築の飛躍発展は、こうした要素生産技術の進歩によったのではなく、それらを建築に結集し統合する生産の仕組みの確立によったと考えるのが適当で、その背景には、古代国家の権力によって集めることができるようになった大規模な民衆の労働力と、それを指導しながら効率良く組織化する能力を有した指導工人の官僚組織の成立があったと。

この古代の官僚組織における建設技術者のトップの役職名こそが「大工」だった。 平安時代中期(10世紀)に編纂された律令の施行細則「延喜式」では、宮廷の建設工事を担う木工寮工部は、統括責任者である大工1名とそれを補佐する次席の少工1名の下に、各工事を担当する木工、土工、瓦工、ろくろ工、桧皮工、石灰工等の技術責任者である長上工13名、専門技術者である番上工数十名、更に彼らの指揮の下で働く駆使丁、飛騨工といった労働者300名ほどで構成されていた。つまり、この時点では大工は官僚組織である木工寮工部にただ一人だったのである。

平安末期には、いわば国家事業としての造営の建設費を国司や貴族が負担するようになり、官僚組織の技術者もそれら貴族に雇われる技術者「雇工」に変化していった。そして、それとともに「大工」の人数も増えていった。ただし、この時点でそうした高級な技術者が働いていたのは、一部の特権階級による建築に限られていた。

渡辺は、それが大きく変化するのは、大規模な築城と城下町の建設が一段落した元和年間(1620年代)を過ぎたあたりからだとしている。それまで一部の支配階級の建築にのみ必要とされていた大工技術とそれを支える職人が、需要の急減に対応すべく職場を拡大し、都市の町屋や比較的富裕な農家の建築に従事するようになったというのである。古代には特別な国家的事業にしか使われていなかった専門技術者による高度な木造建築技術が、時代とともに適用範囲を広げ、ついに近世になってすべてのとは言わないまでも、各地の多くの階層が利用できるところにまで普及したことになる。

要約すれば、この大工を代表とする練磨されたものづくり人の数の増加と、近世に完成形に近付く道具の発達とが、日本全体の建築の生産性を飛躍的に向上させたというのが、渡辺の言わんとするところだった。

明治以降の日本の建築生産は、この長い歴史の中で培われてきた大工中心のものづくり人の世界の上に展開された。そして、建築の近代化は、ものづくり人の活躍する地域や階層の更なる拡張によって成し遂げられていったのだ。もしも十分な数の優れたものづくり人が全国津々浦々に存在していれば、生み出す建築の価値が上昇する形で、日本全体の大小様々な建築の生産性が総じて向上することになる。

ものづくり人の中核である大工の人数を国勢調査で見てみよう。大工人数の統計がとられ始めた1930(昭和5)年の国勢調査では 45万人強。国民約140人あたり一人の大工がいるという状態だった。当時よりも遥かに建築工事量の多い最近の2015(平成27)年に、約359人に一人しか大工がいないという状況であることを考えると、少なくとも戦前の大工数は、建築の生産性向上を支えるのに十分なものだったと言えそうである。

戦後の日本全国の大工人数を見てみよう。1950年は「大工徒弟」という分類があり、これを合わせると約50万人(約167人に一人の大工)、1955年は約52万人(約170人に一人)、1960年は約61万人(約151人に一人)、1965年は約69万人(約142人に一人)、1970年は約85万人(約122人に一人)、1975年は約87万人(約129人に一人)、1980年は約94万人(約125人に一人)。ここまでは大工人数は右肩上がり、増加の一途を辿っていた。コンクリート工事の要となった型枠大工もこの中に含まれていた。