仲俣暁生

仲俣暁生

1990年代のニューヨーク。1990年代前半は失業率が高く治安も不安定であったが、中盤から後半にかけては株式市場が好調となり犯罪率は低下した。しかし依然として失業率は高いままだった。

(写真:佐藤秀明

「知性」は再び浮上するか

知性の人・橋本治の思索はあらゆるジャンルにおいて未来のヒントを与えてくれる。長年にわたり橋本治の書物を読み続けてきた文筆家の仲俣暁生氏が、作品や論考からその史跡をたどり新たな知へと結びつけていく企画、第2弾。

Updated by Akio Nakamata on February, 8, 2022, 8:50 am JST

雑誌の入れ換えの無意味の時代

前回に続いて引き続き1994年に刊行された橋本治の『浮上せよと活字は言う』を読んでいく。この本は橋本治による書物論であり、出版論である。なかでも1970年代後半以後、決定的に大きな変貌を遂げた雑誌について論じることに多くの紙幅が費されている。

よく知られるように、1980年代は「雑誌の時代」と呼ばれた。しかしこの時代には多くの雑誌が生まれただけでなく、休廃刊する雑誌も多かった。意味を失った古い雑誌が消え、新しい意味を担った雑誌が次々に生まれたのであればよいが、この時代に創刊された雑誌の多くも、読者の支持を安定して得ることができず早々に消えていった。こうした事情について橋本は次のように述べている。

「正確な言い方をすれば、一九八〇年代は「雑誌の時代」ではない。一九八〇年代は「雑誌の入れ換えの時代」であり、「雑誌の入れ換えの無意味の時代」だった。新雑誌の創刊点数の多さと、休廃刊された雑誌の数の多さが、そのことを証明している。一九八〇年代に、雑誌というものは変わってしまい、変わることにかなりの程度、失敗したのだ。」(「愚蒙を排す」)

1970年代後半以後は総合雑誌(橋本のこの文章が連載された『中央公論』自身のような)が象徴していた権威ある「活字」が意味を失い、読者の支持を失っていく時代だった。そうしたなかで新たに創刊され、例外的に継続的かつ大規模な成功を収めた雑誌が二つある。『POPEYE』(マガジンハウス、1976年創刊)と『JJ』(光文社、1975年創刊)である。橋本は『浮上せよと活字は言う』の大半を、この二つの雑誌が出版界にもたらした変化の意味について論じることに費やす。その熱量がいま読むと不思議なほどに。

「古い分類」では「新しい意味」はすくえない

二つの雑誌の具体的な特徴を論じる前に、橋本はまず、当時の出版業界がどのように雑誌を分類していたかに目を向ける。『POPEYE』と『JJ』はいずれも「ファッション誌」と呼ぶのがふさわしい内実を供えた雑誌だ。しかし1980年当時の出版業界の「雑誌統計分析」には「ファッション誌」という独立した部門がなかった。橋本が引用するところによると、雑誌は当時以下の25の部門に分けられていた。

児童・婦人・大衆・総合・文芸・芸能・美術・音楽・生活・趣味・スポーツ・経済・社会・時局・哲学・学参(学習参考書)・語学・教育・地歴・法律・科学・工学・医学・農水・週刊誌

この分類を橋本は「役所のセクションと大学の学部一覧に”週刊誌”という不思議なものがくっついている」と評するが、言い得て妙である。たとえば、この一覧には「婦人」はあっても「女性(誌)」や「ファッション(誌)」という区分がない。(ちなみに現在、日本雑誌協会ではこのように雑誌のジャンルを分類している。「多様化」といえばいえるが、分類基準の混乱はむしろ増しているように思える)

「一九七〇年代の後半から新雑誌の創刊ラッシュを迎える出版界は、まず、自分達がこういう不思議な分類項目の下で世界を把握して来たことの古さを考えるべきだったのだ。この考え方が古いから、新雑誌というものが登場しなければならなかったのだし、「雑誌の時代」という形で、雑誌=”大衆的なるもの”にスポットが当てられなければならなかったのだ。」(同前)

そのように考える橋本にとって、『POPEYE』と『JJ』はまさにこの時代の「大衆的なるもの」を体現した雑誌だった。

ベンチに座ってスケート靴を履く人たち
ロックフェラーセンターのアイススケート場で。スケート靴を履き準備をしている人、見ている人、待つ人、休む人。1969年ごろ撮影。

では、なぜこれら二つの雑誌は画期的だったのか。橋本によれば『POPEYE』は「活字の意味を放逐する」という役割を果たし、『JJ』は「社会から規律を放逐する」という役割を果たした。両者の共通点は「見事に読者の声を反映させた」こと、「そしてそのことによって、編集権を放棄するというような離れ業までやって見せた」(「断絶を論ず」)ことにある。二つの雑誌は「ファッション」というかたちで当時の「現実」を体現し、それを知らない「知性」はその現実に敗北したのだ――橋本はそう断じた。

コラム化した「活字」は主役から降りた

これらの雑誌が「活字」にもたらした最大の変化は、すべての文章のコラム化である。日本の出版業界でいわれる「コラム」は、columnが本来もつ「論説」というニュアンスを失った「短文の囲み記事」のことだ。

『POPEYE』や『JJ』以後、より正確には『an・an』以後に登場したビジュアル中心の「見る雑誌」では、グラフィックデザイナーがあらかじめ誌面を緻密に構成し、いわゆる「先割り」でレイアウトを行う。そこでは「活字」は雑誌を成り立たせる主役の座を追われ、決められた文字数のマスを埋める「部品(パーツ)」に過ぎなくなった。同じく和製英語の「ライター」とは、雑誌における部品としてのテキストを発注される納入業者のことである。

とはいえ、橋本はそのようにデザインやグラフィックに対して言葉(活字)が従属的な地位に追いやられたこと自体を、直ちに批判しているわけではない。橋本自身、作家デビュー以前はイラストレーターであり、少女マンガをはじめとするビジュアル表現のうちに新しい意味と希望を読み取った書き手だった。そして橋本自身、当時生まれたさまざまな「新雑誌」に幾多の「コラム」を書いた(当時のコラム・ブームを皮肉った『デヴィッド100コラム』という題の書き下し本さえある)。

『POPEYE』や『JJ』の登場には、旧来の「活字」によっては把握できなくなった、さまざまな新しい「意味」が込められていた。しかしその新しい「意味」はながいこと言葉によって把握されず、したがって社会のなかで正当に位置づけられることもなく、可能性はただの可能性のまま実を結ぶことなく萎れていった。橋本は『浮上せよと活字は言う』でそう論じたのだった。

『POPEYE』と『JJ』のうち、その後によく論じられ、関係者による証言も豊富に残されているのは『POPEYE』のほうである。代表的な著作としては、初期の編集部員として関わった椎根和による『POPEYE物語――若者を変えた伝説の雑誌』(新潮文庫)、この雑誌の愛読者だった赤田祐一による『証言構成『ポパイ』の時代―ある雑誌の奇妙な航海』(太田出版)がある。同誌を生み出した出版社、マガジンハウス(平凡出版)をめぐる本まで含めれば枚挙にいとまがない。なのでここでは、その後もあまり語られることのなかった『JJ』について、橋本の論と、その後について述べることにしたい。

「コーディネート」という実用的知性

橋本は『JJ』のどこに新しさをみたのか。それは同誌に先立つ、先鋭的な女性ファッション誌の草分け『an・an』との対比により以下のように説明される。

「それが「新しい思想」であったのなら、まだ事態は活字人間にとって把握可能なものだっただろう。しかし『JJ』は思想誌ではなかった。「カタログ雑誌」とも呼ばれた、単なるファッション誌だった。「既にすべてはそこにあって、だから、そこには秩序立て(コーディネート)が必要だ」という、その思想だけが、コマ切れの写真の中から見えていただけだ。」(「三度断絶を論ず」)

ここで「思想誌」と呼ばれているのは『an・an』のことである。たしかに『an・an』は女性ファッション誌のあり方に一つの革命をもたらした。しかし、この先鋭的な雑誌が提示した「思想」は、日本の多くの女性たちにとって「現実の役に立たない」ものだった。その意味では外来の最新思想が、大半の日本の男にとっての身に沁みないのと同じである。

赤い車
2018年ごろ撮影。アメリカ・ネバダ州には観光客向けにまだ蒸気機関車を走らせている街があり、その駅前に停まっていた車。街中が意識して古いものを見せようとしている。

それに対して『JJ』は、過去の様々な時代の「思想=ファッション」の流行がもたらしたデッドストック的な蓄積――男にとっての「積ん読本」のような使われないままの知性――に、一枚のスカーフの使い方に象徴されるような「コーディネート/秩序立て」という「実用」を提示した。そのことで『JJ』はファッションから「様式」というかたちで存在してきた伝統的な「規律」を放逐した、と橋本は言う。

規律なき伝統は「ニュートラ」と呼ばれ一般化すると同時に、日本の平凡な――「コンサバ」とも呼ばれたとおり、保守的でもある――女性たちに、「考えるということは、具体的に、この現実をどうするかを考えることだ」という知恵をももたらした。「そして、そのまんまどこかへ行ってしまったのだ」、と。

ところで、『浮上せよと活字は言う』で橋本治がこのように書いてから、すでに30年近い歳月が経った。『POPEYE』はその後、幾度もの方向転換ののち、「若者」というよりもずっと薹が立った「活字」好きな青年向けコラムマガジンとして存続している。他方、『JJ』はインターネットとSNSの時代が本格化するなかで急激に部数を落とし、2021年2月号をもって不定期刊行化とウェブ媒体への移行が発表された。紙媒体としては事実上の休刊である。

そのように『JJ』休刊が報じられた後、1990年代に同誌の熱心な読者だったという作家の鈴木涼美による『JJとその時代 女のコは雑誌に何を夢見たのか』(光文社新書)が刊行された。本書は実感的・体験的なすぐれた『JJ』論であるのみならず、『JJ』とその同時代の女性ファッション誌論、普遍的な雑誌論である。橋本が「そのまんまどこかへ行ってしまった」と嘆じて以後、「どこかへ行ってしまった」もの、つまり若い女性たちにとっての「現実」を語る言葉は長いこと不在だった。ようやく「活字」によってその現実が捉えられたのだとしたら、新たな知性もまたそこから「浮上」しうるのかもしれない。

本文中に登場した書籍一覧
POPEYE物語――若者を変えた伝説の雑誌』著 椎根和(新潮文庫 2010年)
証言構成『ポパイ』の時代―ある雑誌の奇妙な航海』著 赤田祐一(太田出版 2016年)
増補 浮上せよと活字は言う』著 橋本治(平凡社ライブラリー 2002年) 
JJとその時代 女のコは雑誌に何を夢見たのか』著 鈴木涼美(光文社新書 2021年)