脱炭素にまつわる二重のレトリック
脱炭素の話に戻そう。今、脱炭素が進められているのは、人間のせいで自然環境に大きな変化が起こり、それが脅威となると考えられているからだ。そしてそれに関して人類には「責任」があると考えられている(詳しくは前回の記事を参照)。
守るべき対象が何かという点には、個人の考え方やや立場によって違いがある。影響を受ける動物がかわいそうとか、水没する地域の人たちに申し訳ないとか、その対象はばらつきがあるのだ。なかには「今の人間の生活は持続可能ではない。このような暮らしをそのまま続けていくと自分たちの生活も早晩回らなくなるから早く見直すべきだ」といった、自分の不利益を回避するために生活を見直すべきだという考え方もある。ただしその場合はあまり「責任」によって脱炭素を推進しているとはいえない。どちらかといえば「自己都合」ではあるが、一応「自然に関する責任」の範疇には入るだろう。
脱炭素を進めるうえでは「自然に関する責任」が駆 動力とはなっているが、実際には市井の人々には「このままでは地球が危ない」といったように、脱炭素のためのアクションをとりたくなるような扇情的な表現が用いられている。
つまりここには二重のレトリックが存在していて、国際交渉上は感情にはあまり訴えず「気候変動は人権問題なのだ」という物言いがなされる一方、一般の人に対しては「ホッキョクグマがかわいそうだ」とか「地球が危ない」とか、「自然に対する責任」に近い表現がなされている。
環境問題と気候変動問題は異なる
実は、脱炭素にはレトリックにからむ問題が複数存在する。
例えば、環境問題と気候変動問題は同じようでいて少し違いがある。気候変動といったときには純粋に温暖化問題のことを指すことが多いが、環境問題といったときは、金属資源問題や公害やごみ処理の課題などを含む。
環境問題の目的が「自然を守る」ことなのであれば、その「自然」には気候以外のものも含まれるため、そこでは複数の問題が包摂されるのだ。
さらに「自然の搾取はよくない」という言い方は実はとても複雑で、そのような台詞を言う人が推進しがちな再生可能エネルギーは、実は最も直接的に自然を搾取している。
だからそのあたりはより定義を厳密にしていかなければ、理想と現実が乖離する。「自然の搾取はよくない」と言ってしまえば、再エネ開発できなくなってしまうのだ。それは気候変動問題に対処しようとしている人たちにとっては都合がよくない考え方となる。
最近では脱炭素を語るときには“自然”とか“環境”といった言葉ではなく、純粋に“Climate Justice”や“気候変動”という言葉が用いられるようになり「それは人権問題なのだ」と説明されるようになった。そうでなければ、気候変動問題は従来の環境哲学の枠組みで対応ができない。
自然に関する問題は、生物多様性なども含めて本当にさまざまな課題が存在する。だから目指す方向はざっくり同じでも用いられるレトリックが変わることで不都合が生じることがあるのだ。